度々になってしまいますが、612です。
「ネタばれOK」の掲示板になる、とのことでしばらく来ないようにしようかな、と思ったので取り急ぎ・・・。
自分で「スター」という言葉を安易に使ってしまったくせに、皆さんの意見を読んでいるうちに「スター」が分からなくなってきてしまいました。(「スター不在の時代」といわれて久しかったりもする訳で・・・・。)つまりそれだけcyuさんの書き込みは私にとって何をいわんとしているのか分かりましたし、納得できる物であった訳です。
私はあくまで「スター」を一般的な意味で使いました。街行く人にクサナギツヨシをスターだと思いますか、という質問をして、果たして何人の人が「スターだと思う」と答えるでしょうか?だったら田村正和だって、木村拓哉だって全部の人が「スターだと思う」と答える訳はないはずですが、クサナギよりは得票数が多いような気がしませんか?もちろん「スター不在の時代」なのですから個人個人に「現代のスターは誰でしょう?」などと聞こうものならそれこそ何人の名前が挙がるか分からないのですが。
私が使った「スター」という言葉はたとえば石原裕次郎、たとえば美空ひばり。こんな種類の人たちを指して使いました。彼らに心酔していない人間までもが、彼らが活躍していた時代にはとりあえずは「スター」として認めたであろう、種類の有名人。そこまでの「圧倒性」を持っている人たち。
私が失敗したのは「スター」の使い方より、それに対する言葉としてクサナギを「脇」と表現してしまったことですね。これが一番いけなかったのだと反省しています。うん。彼は間違いなく「蒲田行進曲」では「主役」ですものね。でも、上記のような「スター」ではない。ということなのです。(しつこいって?)「スター」にヤスはできないですものね?
って、又「スター」「スター」と使い過ぎています、ゴメンナサイ。
「スター」だとか「オーラ」だとか「カリスマ」なんていうのは軽々しく使ってはいけない言葉なんでした。
じゃあ、彼を一体何と表現すればいいのか?これが分からないから、私は彼に引き付けられるのかもしれません。「スター」ではないのに、「他を威圧するほどの存在感」をもっている訳でもないのに、あれだけのパワーを舞台で爆発させる。そうかと思えば「降霊」のように「脇としての存在」を求められれば、ちゃんと「脇」として画面の中に溶け込んでいる。これが何度も使われている「ニュートラル」という言葉へ繋がる訳ですが・・・・。
芝居ではなく、バラエティを見て彼のことをこう評した友達がいました。「相手を”素”にさせる存在だ」と。「ぷっすまSP」の木村拓哉、香取慎吾。先日の「プロモゲリラ」の中居正広。「いいとも」で共演している関根勤やタモリは彼を見て”素”になってげらげら笑っている。やっぱりここでも「相手にさえも何らかの効果」を与えている存在なんですよね。
いくら言葉を重ねても「彼はこういう役者なんだ」という答えが見つかりません。私の脳みそが足りないか、はたまた今現在「イタイ」クサナギファンになってしまっているためなのかもしれませんが、それこそが彼に引き付けられる最大の理由なのかも知れません。「わかんない」ってことが。
はじめまして。
日付け的には「蒲田行進曲」大阪初日ですが気持ち的には前日とさせていただいて、
再演前に去年あの舞台で味わい、そして内容はもちろんの事、ここにいる皆さんと同じように
「役者 草なぎ剛」について考えさせられた日々の思いの一端を、と思い書き込みさせていただきました。
まず自分の意見を一まとめにしようと思ったのですが、引用する文学の出典が分からず(苦笑)四苦八苦してたら、ずるずる伸びてしまいました。
どなたにもレスしまくりたい気持ちを今は押さえて、今回は内田勝利 さんの客論に感ずるところがあり、ここから書いてみようと思います。
また私も前から「草なぎ君は昔のスターさんと同じタイプなのでは」という思いを持っていたのです。
ただ一つ昔のスターさんと違うのは草なぎ君は昔のスターが持ち得なかった「現実感」を持ちあわせている人ではないかと思うのです。
私たちから見ると、スターとは存在自体が日常現実から浮き世離れした人種です。今は時代の流れにもより「親しみやすいスター」が多く出現してますが、それでも芸能人は私達の身近なものではないです。そのスターの芝居に「現実味」というものを持つというのは一見相反していると思うのです。(「相反している」「両面的なものがある」というのは草なぎ君の演技を語る重要なキーワードですね。)
この草なぎくんの持つ「現実感」というのは例えば、山田洋次監督が描き出す「寅さん」などの「庶民的でほのぼのした親しみ」と共通してるようでどこか違う気がします。そういう要素も持っているでしょうが、どちらかというと「生々しさ」というのに通じるのかもしれません。
役柄のつらさ、痛みがダイレクトに観客に伝わる、というのもそういう部分からきているのではないかと思うのです。
また脇役的存在だからみんなを馴染ませる空間を作らせる事ができたのだ。
という事をおっしゃられた人もいましたが、私は「彼にしか出来ない独特の空間を自然に作る人」でしかも「リズムをつくり出す」という芝居を舞台上で表現させるには脇役的な人では絶対に無理だと思うのです。それに脇の空気に染まってしまう主役はすでにその舞台の主役ではありません。
何故なら脇では例え自分の見せ場で上手く「リズム」や「空間」を作りおおせたとしても、それは舞台全体から見ればその場面だけのお話なのです。劇そのものには、アクセントになってもなんら変化は与えないのです。(最悪の場合は舞台そのもののリズムを壊す可能性があります)
舞台の持つ主題(テーマ)そのものの「空間」と「リズム」を作り得る人は「主役」を持って他にないと思います。
ここらへんは、バタバタとしているので言葉が足りないと思います。(ああ早く寝なければ・・)
しかもちょっと道がずれて主役論になってしまったかもと思うと冷や汗の思いです。
が、私が思う草なぎくんの演劇論の一端に通じる事であり、またあくまでも私見ですのでご了承くださいませ。
舞台を見終わったあとに今度はもっと腰をすえて書こうと思っています。
「私が歩くそれがテーマ、私が走る、それがストーリー。私の存在が(映画)そのものよ。」
とつか先生は戯曲の中で何度も書かれれてます。
私はとても共通するものを感じるます。
いよいよ初日です。去年よりも何故か緊張して会場に向かいます。
稚拙な文章で皆様、失礼しました。
はじめて投稿します。ファン歴は短いですが人一倍熱心な草なぎ剛ふぁんだと自負しています。私が剛君にはまったのは『SMAPXSMAP]の罪キング〈ドライアイス)編からです。それは決められた時間内にドライアイスを高く積むかというのを競うゲームで、他のメンバーがいっぱい積み上げているのに剛君はまだその半分もいっていなくてハラハラして見ていましたが本人はきわめてマイペースで周りに惑わされる事なく慎重に集中してやっていました。そして他のメンバーが次々に脱落していく中、剛君は慎吾ちゃんの妨害にもかかわらず最後には木村君の記録も抜いて優勝してしまいました。 その様子が気負いもなくあまりにも淡々としていたのがとても印象的でした。
SMAPの中でも初めはあまり目立たなかったけれども、現在の充実した剛君の仕事振りをみているといつもその事がおもいだされます。
長い間芸能界にいるのに、ちっともすれていなくて無垢な印象のある剛君だからこそヤス役をあれだけ素晴らしく演じる事ができたのだとおもいます。
昔。銀チャン役をやった加藤健一さんが「役者にとって大切なのは完成だと著書のなかでかいていましたが、日頃から剛君は感性を磨く事を心掛けていると言っていたのでまさにその通りだとおもいました。
つかさんが、芝居はテクニックではなく、人間としての生き方といっていました。剛君には、これからも感性を磨いて素敵な生き方をして役者として益々成長して欲しいです。
並びに文字の打ち間違え有り。
参加いて ←もちろん 参加して
投稿する前にきちんとチェックしないといけませんねー。
重ねてお詫びを。
乱暴な表記をしてしまい申し訳ありませんでした。問題の箇所は、私の発想の中で重要なポイントだったので、敢えて削除しなかったのですが、表現というものは、発した側と受け取った側が必ず同義に理解し得ない場合が多々あるという事実を考慮するならば、こういった場所に掲載するには軽率だった感がありましょうか。管理者の方に無用な負担をおかけしてしまった事をお詫びします。以後気をつけます。
一度にそれこそ何人だか想像もつかない数の人々が見る事の出来るインターネットという媒体の一部を、個人の責任で管理していく事の難しさはこちらの想像以上と思います。色々と大変でしょうがこれからも頑張ってください。期待していますし、私も参加いて行きたいですので。
MENAさん。
クサナギヤスの最後の長台詞を「唄」に例えられたのは、とても上手いし納得でしました。確かに心地いいんですよね。私はそれには彼の「精神の解放」があるのでは、と思いました。
普段寡黙な彼が一気にあれだけ「感情」を吐き出す時物凄い「開放感」が伴っているはずで、それがこちらまで伝わりあの心地よさに繋がるのではないでしょうか?
612です。 「研究室」の内田さんの「論文」、カツシンとクサナギについて述べておられましたよね。凄く彼の「演技」についてわかりやすく解説されていて、「おおっ!!」と思ったのと同時に何か違和感があったのです。それはカツシンは「スター」だけれどもクサナギは役者としては「スター」ではない、ということだったのです。(SMAPというグループは「スター」だと思う。矛盾しているんだけど。)で、今まで皆さんの書き込みをたくさん読ませていただいているうちに、自分の中でちょっと、「ああ、そうか。」と分かりかけてきたことがあります。
彼は「スター」じゃないから「オーラで他を圧倒することが無い」ため、「操る空間を周囲に影響」できるんではないでしょうか?「スター」が発する「オーラ」の前には他の役者はただただひれ伏すしかないけれど、「脇」が醸し出す「雰囲気」には他の役者は染まることが出来る。「空間」を他の役者に影響できるのです。
実はこのことを気づかせてくれたのは”miho”さんの書き込みです。mihoさん自身の結論としては「何をやっても木村拓哉」とクサナギは実じゃ一緒なんではないか、となっていましたが、私はあの書き込みがきっかけとなり、「オーラ」という物について考えることが出来「やっぱり彼は”スター”じゃない。」という結論になりました。(ああ、こうやって書くととってもとってもmihoに反発しているしているようだけど、mihoさんの言いたいことが良く分かったら、私のヒントとなったのです。気に障ったらゴメンナサイ!!それどころか言いたいのはお礼なんですぅ。)
「何をやっても木村拓哉」と同じように私は最初の書き込みで「何をやっても田村正和」を例に挙げました。やっぱり「これ」が「スター」だと思うのです。「何をやっても本人」で何年もの長い間「主演」を張り続けられる、ということは求められているのが「その本人」だからです。
クサナギはちょっと違う。「ヤスをやるクサナギ」が見たい、「文部省の役人?!今度はどんな風に演じるの?!」等、私たちはあくまで「役者クサナギ」が次にどんな風に化けるのかを見てみたいのではないでしょうか。(誤解の無いように言っておきますが、「スター」の方が「上」だとか、そういうことではありません。)
滝さん
「性の希薄さ」、分かるような気がします。「植物」みたいですよね。他のメンバーがエロ話をしても笑っちゃうのに、彼がするとドキッとするのはそのせいなんだなあ、きっと。しかも「真面目に語る」からなあ・・・・トホホ。
いよいよ、待ちに待った「蒲田行進曲」が再演されますね。
昨年の舞台を観た時は、本当に驚きました。
やはり、後半のヤスの長台詞のところです。
小夏への語り口になっていますが、あれは殆どヤス自身の独白、もしくは観客への告白のように思えました。自分は二重人格だと人に言われると言っていたとおり、前半ニコニコと軽妙に話していたのと一転して、阿修羅のごとく悪態と罵詈雑言を、唾と共に吐き出します。それと同時に、主にセリフを吐き出しているだけなのに、猛暑の中を走り続けているかのように、身体中から汗が噴出していました。セリフを喋る、もしくは叫び続けていたとしても、こんなにすさまじい汗をかいている人を、私は初めてみました。まるで身体全体で、「ヤス」が涙を流しているかのようでした。(実際涙も流していたのかもしれませんが、それと区別がつかないくらいでした。)
本当に心の底からの叫びでないと、多分、こんなに汗は出ないでしょう。まさにその情熱に、観客は圧倒されたのだと思います。
しかも、かなり長い時間、愚痴とも悪態とも取れる言葉が続いているにもかかわらず、不思議なことになぜか、奇妙な心地良い波に包まれているような感覚におそわれました。多分それは、くさなぎ本人も感じていたことかもしれませんが、幸いにも数回観ることが出来たために、そこで少しその訳が分かったような気がしました。
ヤスの長い告白の語り口調は、実に独特です。恐らく、これに近い語りをする人が今までいなかったために、批評家たちがうまく表現することに四苦八苦していたように思えます。
そのテンポ、イントーネーション、抑揚の変化は実に多様で激しく、まるでダンスのような、歌のような語り口調なのです。その”波”が刺激的で、しかも心地良いのです。
つかこうへいから生まれた言葉が、くさなぎ本人の口からどういう経緯でセリフが発せられ、本舞台への決定稿となるまでの様子を、是非”聞いて”みたかった。一体どの時点で、このメロディーは”作曲”されたのだろうかと。絶対音感のある人に、聞いて楽譜を起こしてもらったら、きっと面白い譜面が見れることでしょう。そして、去年の公演中はその譜面はほぼ変わっていなかったと思います。(追加はあったものの。)
この再演で、その譜面は変わっているかどうか、密かに楽しみにしています。
えー、挨拶が後になりまして、失礼致しました。
初めてこちらに書きこませていただきました。以前つかさんところのメールから、こちらのURLのことを知りまして、皆さんのいろいろなご意見を、興味深く拝見しています。
とても面白いです!
思うことを言葉で上手く表現するのはなかなか難しいですが、私なりに役者「くさなぎつよし」について思うことを、時々書いていきたいと思っています。
これから、どうぞよろしくお願いします。
ストイック、ってひとつのキーワードですよね。それは性的なものに限らず、なにか、自分に課したものがある、感じ。
性には、生物的なセックスと社会的なジェンダーがありますが、男も女も相手の性を生まれながらに身のうちにもっているんですよね。それがいろんな葛藤を生むし、魅力にもコンプレックスにもなりうる。いろいろ考えるてだてになりそうです。
滝さんの書き込みも大変興味深く読ませていただきました。おっしゃりたいことは大変よくわかるのですが、「天皇を含む皇族の人」や「知的に障害を持った人」の例は、もしかしたらなくてもいいのでは、と感じました。
これは滝さんだけではなくみなさんへのお願いで、実は一番肝心なのはわたし自身が一番危ないゆえの自戒なんですが(汗)、掲示板は書き込まずともご覧になっている方がたくさんいらっしゃる所です。悲しく感じる方がおられないかしら、と想像して言葉を選んでいただけたら幸いです。
子供、動物、僧侶、神職などの性差の薄さにたとえて考えてみると、おもしろい視点が開けそうですね。
↓すみません。アドレス入れ損ないました
皆様に意見を伺いたい事があります。
昨年放映されたオムニバスドラマ「バカヤロー」のシリーズ『セクハラでから騒ぎするな』
あの作品自体の感想というのは「まあ、それなりに面白い」程度だったのですが、その中でクサナギさん演じる主人公の台詞で「僕が中性的だから」というものがやけに印象に残っています。「あっ」と思った。
彼がオカマっぽいとか女っぽいとかいう意味では勿論なく、けどたまに彼は性別を感じさせない時があったので、何か小さな納得があったものでした。
例えば『天皇を含む皇族の人』とか『知的に障害をもった人』とか
もっと広く見ると『子供』とか『動物』、『僧侶』等の存在に対して感じる性別の希薄さ
を連想してしまったものです。
それと似たようなもので「大人なんだか子供なんだかわからない人だ」とも感じます。
こんばんわ。3回目の投稿になります。
みなさん、本当にすごいですね。みなさんの熱い思いを読んでいると、自分のボキャブラリーのなさが身にしみて非常に情けないです。
しかし、伝えたい事が言葉にならないというのは、本当に歯痒いものですね。
でも、私は私の言葉で思うところを一生懸命書いてみようと思います。
クサナギツヨシの演技は、上手いとか下手とかそういう次元の問題ではなく、否がおうでも妙に納得させられる所がある。
例えば、目の前に腐ったリンゴがあるとする。それは、もう生ゴミ同然のぐちゃぐちゃに腐ったリンゴ。勿論、とても食べられた代物ではない。
そのリンゴを見て、「おいしそう」というセリフを言いなさい。と課題を与えたとする。
他の役者は大抵、そのリンゴがまだみずみずしく、テカテカに光っている今が食べ頃のモノを想像して、それを腐ったリンゴに重ね合わせ、セリフを言うことだろう。
そして、その熟した最高のリンゴは私達にも映像となって想像することができるだろう。
クサナギツヨシの場合は違う。
目の前にあるのは、あくまで腐ったリンゴのまま。
どこをどう見ても腐ったリンゴ。
しかし彼が、「おいしそう」とセリフを言う。
不思議なことに、そのリンゴはおいしそうに見えてくる。
他の役者が、優れた演技力でそのリンゴの最高の時を私達に映像として想像させてくれることに対して、クサナギツヨシの場合は、目の前にある腐ったリンゴはそのままなのに、腐っているものをおいしそうだと、おいしいのかもしれないと思わせるのだ。
彼の演技は、「事実を真実」に変えるような所がある。と、私は勝手に思っている。
目の前にないものの素晴らしさを伝える演技力は、まだ彼にはないと思う。でも、自分が感じていることをそのままに何の誇張もなく、何の脚色もなく、ただ素直に私達に伝えているだけなのに、それが一番の感動を生む力は他の誰よりも勝っていると思う。
と、ここまで考えて馴れない事に頭がショートして、何だかフラフラしてきたので、もうやめます。
いかにも、分かったような生意気な発言、失礼しました。
深く考察する力も熱く語る言葉も持ちませんのでかるーいお話を。
ほんの数年前、バラエティー番組で彼のビジュアル及び素の(様に見える)部分にハマったクチの私は、タイトルの2作品を彼の過去の作品としてレンタルビデオにて見る機会を得ました。それより以前の彼のお芝居は見たことがありません。
「家なき子2」を見たときの感想は、なんと「結構うまいやん。」でした!昔は演技が下手だったとのご意見もよく聞きますが、私はもともと演技のウマイ・ヘタがよくわからないのです・・・。やっぱりあれはヘタクソだったのでしょうかー?
このドラマはストーリーも登場人物も全て劇画ちっくで、全体の大芝居的な流れの中で彼の無表情、棒読み調が私の中では好ましく感じただけかもしれません。しかし、この時既に私にはバラエティー番組で知っている彼が、セリフを言ってお芝居をしている風には見えなかったのでした。
ほどなく映画「シュート!」を観たときの感想も同様に「ちゃんとやってるやん!」でした。演技については語れませんので、この映画の中でのお勧め場面をひとつ。
草ナギ君演じる神谷と、木村君演じる久保の出会いの回想シーン。
素晴らしいプレイをする久保の後ろ姿を見送る表情。
久保と二人きりで、少し居心地悪そうな表情。
そして久保に「サッカー好きか?」と問われ、思わずこぼれた笑み。
対抗心→嫉妬・羨望→憧憬→そして友情・全幅の信頼
神谷の久保に対する感情は、こんな風だったかもしれないなーと、私の想像を掻き立ててくれたこのシーンは、映画としても重要なシーンだった様に私には思えます。
さて度々出てくる「ニュートラル」と言う言葉、いいですね。
私は彼がこの先いろんな仕事や出会いに恵まれ、いろんなことを吸収し一層大きくなっていってくれる事を望みます。けれどあまりいろいろなたくさんの事を憶えすぎて、ニュートラルに戻れなくなってしまうような事だけにはなって欲しくない。いつまでもクサナギツヨシであるところの芯の部分は今と変わらないでいて欲しい・・・と祈らずにはいられません。
年末まで忙しかったであろう彼、真っ白に戻れたかな?大阪初日まであと3日です。
さて、かく言う私も、川本さん松本さんはじめこちらの掲示板での皆さんの興味深いご意見に大きくうなずき、インスパイアされながらも、あまりにファンにとっては心地良すぎる言葉の数々に、(ここが敢えて言葉にして掘り下げてみよう、と言う場である事を忘れて)うっかり我を忘れてしまわないよう気を付けながら、自分なりのスタンスで自分なりの考えを模索しつつ、もうすぐ幕を開けるヤス、そしてこれからの彼を見守っていきたいと思います。
なかなか場違いで失礼いたしました。
ランチタイムサーファーの私には、もういつも出かける海が決まっている。どうしてこんなにも草なぎ剛と言う個性に興味を抱いてしまったのだろう。
去年の「蒲田」、剛君のヤスは「昭和蒲田」のヤス達が生活臭を漂わせた大部屋俳優であったのに比べると、映画青年がスターを夢見ている感じが前面に出ている気が私にはした。
本来ヤスのようなタイプの男性を、たぶん世の女性達はあまり好まない。小夏への愛や、階段落ちへの恐怖心が痛いほどわかったとしてもだ。剛君がヤスを演じるのだと聞いた時、大好きな剛君が自分の苦手なタイプの男を演じる事実に、正直戸惑ったものだった。
銀ちゃん・小夏との三角形は、その愛のベクトルが、少しずつ、時には大きく変化する。その変化の妙が、「蒲田」が「蒲田」であり続けるゆえんだと思う。
つか芝居が「愛」と真正面に向き合うことの出来る社会状況が、現在の日本には無く、その大きな病巣の中では、名作「熱海殺人事件」さえもが変化し続ける。だからこそ「蒲田行進曲」は「愛のはなし」であり続けて欲しい。
剛君のヤスは小夏を身も心も追いつめつつ、自らもおおいに傷ついている。それ故にヤスの心の痛みが観る者の心にダイレクトに伝わってくるのだろう。
トップアイドルグループの「6番目の男」と言われながら過ごしてきた日々が、彼の心にたくさんのひだを作ったのだろうか。素晴らしい演出家達と出会い、ただ光りの中を歩いて来たのではない感情のいろいろが、いままさに多面体の輝きを放ち始めている。
こんにちは。相変わらずここは面白い。皆さんの発言ひとつひとつをふむふむとうなずきながら拝見しています。そして、折りに触れて私も考えてみたりしています。
そうしている内に、唐突にふと思ったことがあるのです。それは、クサナギツヨシは自分の発するオーラを操れるのではないか、ということ。
よく、役者には2つのタイプがあって「役を自分にひきつける」人と「役に合せて自分を変える」人がいると言われます。この話を聞いた時に私の頭に浮かんだのは、前者の代表は木村拓哉、後者の代表がクサナギツヨシ。この二人、役者としてはなんだか対称的だなぁと思ったりして。でも、最近になって違うかもと思い始めました。少なくとも、クサナギツヨシはどんな役に対しても自分を変えてはいない気がするのです。むしろ常に自分であり続けてるんじゃないか、という気さえします。そういう意味では木村さんと同じなのかも。
では、なぜ私には対称的に見えてしまったんだろう。役者としての木村さんについて「どの役も木村拓哉にしか見えない」などと言う人がけっこういたりします。もしかしたら、それって彼の放つその強すぎるオーラが災いしているのかも知れない。それに対してクサナギツヨシは、そのオーラの形(オーラに形があるのかという疑問は置いといて ^^;)や強さを変えることで、常にクサナギツヨシでありながらその役に成っているように見えるのではないか。ふと、そんなことを思ったのです。
そして、木村さんはクサナギのそんな能力を感じていてその結果が先日のPVに現れたのかなぁ、なんてことまで考えてしまいました。私服を着ていれば街に溶け込む普通の若者。しかし一旦役が与えられてあの派手な衣装(かなり恥ずかしいものではあったけど(笑))に身を包めば、そのスターという役が持つべきオーラを放つこともできる。
いかがでしょう。なんて、実は書いている私自身もこのことについて半信半疑なんです。まぁ、これも1つのネタフリということでご容赦くださいませ(^^;;;
こんばんは、2回目の投稿をさせていただきます。
皆さんのお話、会議室、読ませていただきました。
「蒲田」大阪初日も4日後になりましたよね、自分のことのようにドキドキしてます。
昨年も初日(夜の部でしたが)を観ることができて、その舞台のすごさに大きな感動を受けたこと、今でも覚えています。
再演が決まり、今回初日は行けないのですが、22日が、私の観る“初日”になります。このページを読ませていただいてると、今まで以上に舞台に期待を持っています。
本当に待ち遠しいです。
昨日、SMAPの番組で、草なぎさんがナレーションを担当していました。新曲のプロモビデオの撮影を彼らが企画・撮影など、自由に考えてやっていくという内容でしたが、
彼らの個性がいっぱい出ていて、とてもおもしろかったです。
その語りを、草なぎさんがされていたんですが、話し方というんじゃなく、彼の声にとても魅了されています。
演じる姿は、何よりも魅力があるし、ひきつけられる力があるけれど、草なぎさんの声は、心に響いてくる、和む、その上すごくパワーがあったりもするすてきな声だなって思います。
セクシーでもあり、ささやくような喋り方には鳥肌立っちゃいます・・・。大人の男を感じさせる声、或いは無邪気な少年の様な声。笑い声も。
草なぎさんは、目に見えない声にもすごく魅力があって、夢中にさせる何かを持っているように感じている今の私です。
「振幅の大きさ」や「ニュートラル」と言うキーになる言葉に納得
しつつ、人によって剛君に注目した作品の名前がいろいろと登場してくる楽しさを、皆さんの書き込みに感じています。
私が剛君に注目したのは、いまも続くしんつよ二人のラジオ番組『
SMAPパワースプラッシュ』(『パワグル』は『パワスプ』に戻りましたね)でした。どちらかと言うと慎吾ファンだった私が何故これほど剛ファンになったのか。いまもそうですが、この番組は時々パーソナリティーがひとりになる。運命の日もそんな日でした。剛君の話は「立て板に水」と言うタイプの話ではないし、むしろ「そんなこと言っていいの」と心配になるくらいの危うさを感じる時があります。でも癒されてしまうのです。初対面の人との会食等々で精神的に疲れた私を乗せた総武快速は、その窓を鏡にしていました。どんよりとした表情は自分でも絶望的になるほどの暗さでした。耳には剛君の声。「ああ、今日は剛君ひとりなんだ」、そう思いました。けれど、私は数分後にはとても元気になっていました。剛君のひとりしゃべりは聞いていて、穏やかな気持ちになるし元気が出る。「トークは苦手」と彼はよく言いますが、心ない言葉の羅列より、実のある一言が言える彼はとても魅力的です。実のある一言を言えるようになった心の成長が、そのまま演技力にも繋がったように思います。役へのアプローチも以前と比べものにならない深さを見せる。技は自ずとついて来ます。
等身大の演技のようでいて、心を本気で叩かれる。剛君のさらなる成長を見守りたいと思います。
『無垢』、これが私のキーワードかな。
612です。
phycoさん
> しかし、そのクサナギの「人」は決して良いところばかりではなくて、
> どろどろした人間くさい部分も含めてなんじゃないかなー、と思います。
もう、これおっしゃる通りでございます。
勘九郎を引き合いに出したのは失敗だった、と思っていたんです。
彼は、歌舞伎の名門に生まれ幼少の頃から「役者」として育てられ、
愛情をたっぷり周囲から注ぎ込まれ、そのあふれ出た愛情を今度は自分が周囲に注ぐ、
ということにより「愛される役者」になっているんですよね。
「育ちの良さ」から来る愛敬みたいなもの、かな?
クサナギツヨシは違う。
SMAP自体が最初は売れなかったタレントであり、
9年来のファンでおられる”てんこさん”が書いていらっしゃる通り、
ほかのメンバーが売れ始めても、彼は確かに地味な存在でしたよね。
「いつか見てろよ」って、きっとそう思っていたと私も思います。
だからこそ、”ふみさん”のこの言葉に繋がるような気がするのです。
>彼はとっても「愛されること」に敏感のように感じます。
>そして、それに絶対応えてくれる子だと思っています。
「愛されること」に慣れていないからそれを人から注ぎ込まれた時、嬉しくって嬉しくってしょうがない。
だからクサナギの場合は「愛情を注ぎ込まれてこなかった」ゆえの、
いじましさ(ちょっと違うか)からくる「愛される役者」なのかな?
実はこのように彼が「SMAPだから」、ということがいろんなところで彼自身や
彼を「見る側」に影響を及ぼしているような気がするのです。
「SMAPにいること」で、彼は絶対に「スター」にはなれない。
表立っては「スター木村拓哉」が引っ張ってきたグループだもの。
さながら銀ちゃんが木村でクサナギは本当にヤス。
だけど「SMAPにいること」で彼は同時に「スター」になる事も出来ている。
夏のコンサート、何万という観客の熱狂の向かう先に彼は飄々と立っている。
何万の視線が自分に向かってくることに彼は慣れている。これは凄い。
「スター」であるのに「スター」でない状況、立場。
ユースケ・サンタマリアに言わせると「エキストラ感覚のSMAP」。
言い換えれば「エキストラ感覚のスター」。
本人も「メンバーといる時は頑張らなくていいから楽」ぐらいの発言をしている。
自分が「前へ出よう」とがむしゃらに頑張らなくても
「スター木村拓哉」を抱えるトップグループにいることで
世間の目は彼を「スターの一部」として見ている。
と、同時にそれと比較し「ヘタレ」としても扱っている。
こんな矛盾だらけの状況に彼はもう何年いるんだろう?
この環境が1人の「役者」に何の影響も与えない訳はないと思う。
「大きくも小さくも響ける」っていうのは、
こんなところからも来ているのでは、と思いました。
はじめまして。
ほんと、この掲示板は面白いです。
私も役者・クサナギツヨシのことを難しく考えてみたいと思います。
612さん
>彼はとても「上手い」と思います。天才だと思います。
>でも、皆さん彼を「愛して」いますよね。
>「上手い」から?「天才」だから?
うーん。「上手い」から、「天才」だから愛してる
わけではないと思う。
段々と彼は「上手く」なって、「愛される」人間になって
いったように思います。
それに、役者さんは演出家に愛されなくては駄目ですね。
やはり綺麗に、というか素敵に撮ってくれますもの。
ドラマでは『いいひと。』の星譲さん、『成田離婚』鈴木雅之さん。
彼らが演出した回がやはり最高です。
また昨年の秋の単発のドラマ『降霊』も綺麗に撮ってくれたような、
ちょい役だけど気に入ってます。
彼はとっても「愛されること」に敏感のように感じます。
そして、それに絶対応えてくれる子だと思っています。
クサナギくんは蒲田の舞台を終えた後にこんなことを言ってます。
「けいこ場で僕が子供みたいになって一生懸命演じてると、
ちゃんとこたえてくれてね。つかさんの愛情が感じられた。
いつも「おまえはいいんだから。いいんだから。」って。
だから、どんな苦しいときでも、たとえば後半セリフが続いて、
腹筋が痛くなって、ちょっとラクしたいなと思ったときでも、
つかさんがあそこまでほめてくれるんだから、つかさんの名誉
のためにも頑張らないとっていうのはあったね。
完全燃焼できたし、自信をもって舞台の上にいられたんだな。
またいつか再演したいと思うよ。見られなかった多くの人の
ためにもね。」
『月間ザ・テレビジョン連載「お気楽大好き(第29回)」』
こんなことを言える彼だから、自分も応援したくなるのだと
思います。
ファンでよかったと思っちゃいます。
つかさんだって明け方の4時に飛び起きて台本書いちゃいます
よねえ。
>松本有紀さん
「メッセンジャー・クサナギツヨシ」の 中で述べている<クサナギ
ツヨシは、つかがその芝居を通して伝えたい言葉、ただ言葉そのものだけでなく、つかの「意志」を、その言葉に込めた「思い」を、演技の形にして次々と伝える天賦の能力があったのではないだろうか。>という意見、まったく同感です。
それは同時に彼には、つかの「意思」を受け止める素直さと強さを
持っていたということですよね。
また上記で述べたようにクサナギくんは「愛されること」を敏感に感じ、それに応えようとする人物だからこそ、蒲田のヤスもあんな人物になっていったのではないかと思いました。
う〜ん、自分で書いていて混乱してきそう。なんだか話がまとまらなくなってきたかも。訳わからなかったら、ごめんなさい。
では、また。
私が剛君にはまってしまったのは、九年前のことでした。その頃のSMAPは
はっきり言って…アイドル…でした。私は「アイドルなんて・・・」と思っているような
人で、ある日友達がSMAPを好きになりその影響でSMAPを見るようになって
メンバ―の中で、異彩を放ち、個性の強い人達の中にいてあくまでマイペ―スな
剛君にはまって行きました。
しかし、その頃の剛君の、露出度は少なく「SMAPの剛君が好き!」等といっても
「だれ?」とか「どこがいいの?」などといわれることが多かった。
それでも私が剛君を今までスキでいられたのは、何があっても、…くさなぎつよし・・・
だったからで、他のメンバ―が次々にドラマに出たりする中剛君は、あくまでマイペ―ス
で、自分が一番輝ける時期を待っていたのかはわからないけど、何も考えてなさそうで
実は人一倍負けず嫌いでどこかで、「いつか見てろよ」と、思っているような気がして
だかうるわしくら私も、剛君を見ていて飽きないしドラマ、舞台でいつも違う顔を見せてくれるし、
バラエティ―ではあんなに不器用な人がいるのかと思うほど、見ていてハラハラさせられたり
する。 私はそんな剛君が好きです。
その中でも一番好きなのが役者くさなぎ剛くんです。
たしかに最近何でも要領がよく器用にこなす、役者、タレントが多い中、決して器用ではない
剛君。最初の頃のドラマ(家なき子2、命うるわしく)などははっきり行ってひどかった。
剛君大スキの私が見てもそう思ったくらいですから。
しかし、ドラマに出る機会が増えるに連れ、着実に剛君は役者としての何かを見つけ
始めたのではないでしょうか。昔はドキドキしながら見ていた芝居が、最近は、ドラマ、舞台
の中の人物として、素直に私の心の中に入って来るようになりました。
こうして少しずつ大きくなり始めた剛君を一番変えたのが、蒲田行進曲ではなかったのでは
ないでしょうか。去年の舞台を観て驚きました。後5日に迫った再公演、楽しみです。
去年いろいろな芝居をして更に大きくなった、役者くさなぎ剛を見るのが楽しみです。
でも、これからも少し不器用で、難だか観ていて心配な気持ちにさせる、剛君も忘れない
でいて欲しいです。早くみたいよ・・・・・・・舞台。
phycoです。
わがまま勝手な私の疑問を考えてくれた皆さんありがとう。
前回の
>「役としてのあり方=クサナギの人柄」として、片付けたくない。
という書き方は曖昧でした。ごめんなさい。
「役とクサナギがシンクロ(同調)しているから、まるで乗り移ったような芝居が出来る。」とは思えない。
と、言いたかったのです。
「ヤスとクサナギはキャラクターが重なるから、よい芝居が出来たのだ」というのは、
よく見かける評価ですが、ちょっと違う気がします。
でも、じゃー、どうして??というのに、答えが出ない。
皆さんの意見、参考になります。まだ、答えは出ないのですが、レスします。
612さん。
>草なぎ剛という「人」、これが全てのような気がするんです。
>「愛される役者であること」。これは、やっぱり「人」だと思う。
>「人柄」という言葉とはちょっと違う「人の根っこ」みたいなもの。
なんだか、はっとしました。思わず納得。
あの、酷い小夏いじめシーンを爽やかにやれるのは、
クサナギの「愛される人」というファクターが無ければ不可能ですね。
しかし、そのクサナギの「人」は決して良いところばかりではなくて、
どろどろした人間くさい部分も含めてなんじゃないかなー、と思います。
612さんの言葉を借りると「クセがある」ってところが、侮れない。
内田さん。
毎回、深いご指摘に感じ入ってます。
>そこにいるだけで、空間が変わるみたいなところがある。
まったく同感です。
もう一つ、クサナギと古い役者の共通点に、その「異端性」を挙げたい。
どうでしょうか??
>180度異なるベクトルを持っていることが、あたりまえなんだけど新しい。
きっぱりファンの私ですが、
「彼の執着は日常的なものに集中している。」という洞察は中々鋭いです。
彼にとっては、それが「ロマン」のようですよ。(あくまで、一ファンの推測ですが...)
そう思うことで、もう一度「日常的なもの」が反転しますね。
>「優しさ/冷たさ」「温厚/激しさ」というような対立する二つの要素が、
>振幅をしながらバランスを取っている
本当に、私の思っていることをバッチリそのまま書いてくれました!!という感じです。
私のニュートラルという表現を賢くいえばこういう感じなんだなー。
皆さんに考えてもらったおかげで、少しだけ見えそうな気がしてきました。
もう少し、考えてみます。
注:本投稿は、投稿者のphycoさんより、「件名に記入ミスがあり、削除を」というご依頼がありましたので、いったん記事を削除、その後再掲いたしました。
松本有紀@管理人
>ひろ様
「君はいるだけで間がもつよね。しゃべらなくていい」
みたいな事をおっしゃたのは、ビートたけしさんです。
確か「さんまの有名人が集まるお店」というのに
「成田離婚」の宣伝に、瀬戸朝香さんと出演した時の言葉だったと思います。
更に剛君は
「自分の台詞以外は目を通さない。その時に他でなにが進行しているのか
自分は知らないわけだから、他の台詞は知らなくてもいい」
みたいな事を言って、たけしさんに「頭がいい」と言われてたと思います。
こんな風にクサナギツヨシについて語る場所があったことを初めて知って嬉しく思います。
私はツヨシがただ好きで好きで自分でおもっているだけで人が考えるツヨシというものにほとんど触れられなかったので。
ツヨシは目じりにあらわれるヒトだと思います
目じりと言うか…細い細いと言われますが目で語るトコロがあると思うのですが。
蒲田再演…知ったのが遅かったので観にいけるかどうか…でも観たい!観たいです!
クサナギツヨシがゲストで出演していた番組で、聞いたことがあるような気がするものがあります。
>内田勝利さま
> いろいろと考えたんですが、僕は、クサナギツヨシは古いタイプの
> 役者だと思うんですよ。昔の役者って、そこにいるだけで、空間が
> 変わるみたいなところがある。
「君はいるだけで間が持つよね。しゃべらなくもいい。」
みたいなことを言われていたと思います。
強い存在主張をしなくても、不思議と存在感がありますよね。
> ニュートラルという言葉が出てきましたが、クサナギツヨシのニュ
> ートラルさは、「優しさ/冷たさ」「温厚/激しさ」というような対
> 立する二つの要素が、振幅をしながらバランスを取っているというと
> ころがあって、それが役の魅力に繋がっていると思います。
「メレンゲの気持ち」で高木美保さんが、「ギャップのあるモノが全部入ってる。しかも、それが嫌味じゃない。」って言ってました。これは彼本人の魅力として語っていましたが、それがあって役の魅力も増しますものですよね(^^)
何だか、自分の考えでない書き込みですみません。
でも、いろんな人の語るクサナギツヨシを集めていくと、何だか彼に一歩ずつ近づいて行けてるようね気がします。
でも、どんな人かわからないから、惹き付けられているところもありますよね…。
はじめまして。こういう場が出来て、とてもうれしいです。
これほど、イメージを膨らませられる素材に出会えたのは
ひさしぶりです。もう、うまいおかずに出会えた気持ちです。
これだけで、ごはん3杯はたべられるってゆう_ねえ、、。
あ、彼が、うまいごはんか、、、。
私が始めて彼に、はまったのは「成田離婚」でした。
まず、すごいと思ったのは、その顔つき。いつもはスルドイと
いうか、シャープな顔つきなのに、ドラマ中はさわやかで、か
わいい顔(こんな表現はしたくない。でも、他にどう言う?)に
なっていた事。(きっと、役者の時は、彼、2割り増しで、眼、あけ
てますね。)彼は、「自分をどう見せるか」と言うことに関し
ては職人的です。ある意味で、計算し尽くしているのでは、と
さえ思えます。
けれど、言葉に感情をのせる時、彼は演技することをやめる。
人間は、いつも心の片隅で「自分の居るべき場所は此処ではない
何処か」だと思っている。でも、それは、処世術として他人には
知られないように、と教え込まれる。大抵の人は、これをうまく
やってのける。けれど彼は、それが、うまくないと思う。
だから、ふつうの人の様に演技をすると、どうにもならない。嘘
の上に嘘を載せた様になるから。
彼は独自の表現法をつかう。それは、すべてをさらけだして、
捨て身的です。まるで、覚悟を決めたように、やってのけるのです。
彼は、サモトラケのニケの様に、いろいろな事を、想像させてくれ
ます。