VOICE Reading 椿姫 with くさなぎつよし


〜2002.6.30 白石ホワイトキューブ公演感想〜

ZERO

びわ湖ホール23日の昼・夜と観ることができました。

小箱に、大事にしまっておきたいような、時間と空間でした。
無垢の手彫りの木の小箱。
丁寧に磨き上げられ、蓋には椿の意匠が彫ってある。
時々、そっと蓋を開け、あの贅沢なひと時の余韻に浸る……。

いきなりワケわからん例えですみません。
でも、その箱にどうしても収まりきれなかったものがふたつあって、
それこそが、私が求めて止まないクサナギツヨシだったのではないか、と、
思っています。

ひとつは、有谷によって語られる椿の落書きの中に登場する、古田の父親の声。
「椿ちゃんだよね?」
ひんやりとした、ぬめりのある低音。
椿の高校時代の援交相手であったと同時に、息子から尊敬される父親であり、おそらく
社会的地位もそれなりに築いている人物。
ただの「中年のスケベ親父」とは明らかにちがうその声。(真壁の表現と正反対)
あの、妙に落ち着いた温度の低い声が、耳に貼りついています。
そう、彼が感情移入していたというクライマックスの第4場よりも。

ふたつめは、ぴあそらさん、よくぞ書いて下さいました。

>ゆらりと立ち上がったそのシルエットは、クサナギツヨシの姿によく似ているけれど、
>全然違うほかの誰かでした。
> この人は誰だ。その時、確かにそう感じたのを今思い出しています。

笹倉の「……病院名が書いてあったそうだ。」
で、クサナギは業務日誌を閉じて机に置き、最後のアリア、「ああ、私の短い命も終わる」
が始まります。
それまでのアリアの間、クサナギは暗闇に包まれて、椅子に座っていました。
時折、グラスからお茶を飲み、足を組み替え、朗読者として。
最後のアリアが始まると、舞台奥紗幕越しの野田さんに照明が当たるとともに、
クサナギの姿も微かな照明の中にうすぼんやりとですが、浮かび上がります。
(このあたり、記憶があやふやなので、間違っていたらどなたか訂正お願いします)
そして、アリアに応えるかのように、朗読者は「ほかの誰か」に変わっていったのです、
私の目の前で。
椅子に座ったまま、両手で頭を抱えたり、手を握りしめたり、空(くう)を見つめたり、
たったそれだけの動きなのに、目が離せない。
悲しみ、苦悩、やるせなさ、自責、悔恨、痛み、絶望、が、
次々に空気を通して(当たり前)押し寄せてくる、とでもいったらいいのでしょうか、
とにかく私は混乱して、息苦しくなったような気がします。(記憶が曖昧…)
アリアの途中で彼は立ち上がります。
アリアが終わると、ろうそくを吹き消すのですが、
この間の存在の強さ、というか、伝わってくるものの大きさには、
ただ圧倒されました。

前半、正直なところ、私は物語より野田さんのアリアに感情移入していました。
感情移入、というより、胸を締め付けられる、と言った方が適切かもしれない。
(ホールが音楽専用でなかったので音響の面では残念でしたが)
それはきっと、ヴェルディの音楽の持つ「力」があまりに強かったから。
(これについては後述します)
次第に、どちらが主役というのでなく、歩み寄るというのでもなく、
アリアと朗読はお互いを深め合いながら、お話を進めていくようになったけれど。
そうした「コラボレーション」に身を委ねていたところに朗読者の突然の変化。

彼は、有谷ではなかった、と思います。いや、有谷ひとりではなかった、というべきか。
椿と古田を見守る有谷でもあり、椿のもとに駆けつけた古田でもあり、そして
ヴィオレッタの最期を目の当たりにしてなす術のないアルフレードでもありました。
私は1階ほぼ中央の席だったので、この場面、クサナギを観ていると、
紗幕越しの野田さんも視界に入ってきます。
野田さんは、歌だけでなく、全身でヴィオレッタの臨終を演じていました。
(ヴィオレッタは最愛のアルフレードに歌いかけているのです)
その魂の叫び(ああ、なんて語彙不足!)ともいえる絶唱に、彼は応えているように、
私には見えました。
紗幕越しで、お互いに目を合わせることも向かい合うこともなかったけれど。
彼が彼女の絶唱を受け止めることによって、初めてヴィオレッタの向こうに、
椿の存在を感じたような気がしました。

以上の感想はあくまでも私が勝手に感じたことを、極力整理したものです。
妄想入ってる、と言われても、仕方ないです。
あの衝撃を言葉で説明しようとしたら、こんなに長くなってしまって、ごめんなさい。

そうそう、ヴェルディの持つ「音楽の力」の強さ。(って、私の手におえるのか?)
それは、「古典」と呼ばれる芸術作品の持つ強さ、ということもできると思います。
「古典」といわれるものは、これまで多くの演者、観客に支持され、
愛されてきたからこそ、今日まで残ってきたのだと、改めて実感しました。
ものすごく荒っぽく括ってしまうと、目に見えない感情を具現化して、
耳に届けられる音楽は、優れたものであればあるほど、直にひとの感情を揺さぶり、
虜にしてしまう。言葉では、追いつくことが出来ないほどに。
いきおい、脇にまわった「言葉」の比重は軽くならざるを得ない。
そのため「名作」「古典」といわれる、オペラなりバレエなりは、単純な筋書きのものが
多いのではないか、と。
ずいぶん乱暴な捉え方ですが、私自身が、お話のややこしいオペラやバレエでは、
右脳も左脳もフル回転で、「陶酔」とか「うっとり」とは遠ざかってしまう性質なもので。
で、何が言いたいかというとですね、土田さんも、「オペラ椿姫」をテキストにした以上、
この「単純な悲恋物語」に沿う形でしか脚本を組み立てられないのは、当然だな、ということ。
設定や登場人物が幾分変わっているけれど、基本的には
 「かつて道を踏み外した女性が真っ当な青年と出会い真剣な恋をするが、
  自らの過去故にその恋をあきらめ、病に倒れ、恋人に見守られて最期を迎える」
おはなしですよね。
恋をあきらめる理由が、ヴィオレッタの場合「自己犠牲」であり、
椿の場合“自分で蒔いた種なので引き受けるしかない”という「自己責任(?)」
である、という点で異なっていますが。(ヴィオレッタも結局は自分で決意するのですが)
多分このおはなしを際立たせるために、真壁は単なる「イヤな奴」「敵役の上司」という
単純な悪役として表現されなければならなかったのでは、と思います。
もし、真壁の言動の奥にある人間的な厚みのようなものを表現すると、
おはなしの輪郭がぼやけてしまったかもしれない。
古田の父親の、ある種含みのある造形は、椿の「自己責任」を浮き彫りにするために、
必要な表現だったのかもしれない。

考えすぎかもしれませんが、パンフにあった土田さんの
 「「椿姫」における普遍的な本質の部分を生かして」
のくだりを読んで、色々推測してしまいました。
結局この作品は、ヴェルディの音楽に対して、土田&クサナギ連合軍が挑んだ
“異種格闘技戦”だったのかなあ。(←きっと間違ってます)
明確に勝利することはできなかったけれど、(だからそういう企画じゃないってば)
敵の凄さを観客に見せつけることによって、同時に自らの存在を強烈にアピールすることに成功した、
という点で、決して負けてはいなかったと思う。

初演の感想やレポートをあちこちで拝読するにつけ、
 「こりゃ、朗読というより一人芝居では?」
と抱いた直感が、実際に舞台を観て、正解だった(土田さんもCDブックで書いてるし)
こと、とてもうれしかったです。
だって、クサナギツヨシの「ただの朗読」なんて、もったいないことこの上ないじゃないですか。
土田さん、高田さん、野田さん、スタッフ(照明も素敵だった)、そして
 「舵を取るのが自分だって言うのが責任重大」(月刊テレビジョン4月号)から、
 「舞台上ではすべて自分が操作出来る。これは楽しいよ〜」(月刊テレビジョン8月号)
へと変化したクサナギに感謝、です。

書き逃げで大変失礼いたしました。
是非是非、再演を重ねて、変わってゆくであろうこの作品に、また会いたいです。




インデックスへ
「クサナギツヨシを考える掲示板」へ

Topへ

運営者宛メールはこちらへ