VOICE reading 椿姫 with 草なぎ剛 感想

「ああ、まことにそはかのひとか?」

松本 有紀


いきなり話は「椿姫」のカーテンコール。

満場の拍手に迎えられて舞台に再び現れたクサナギツヨシは、胸に手を当て、「ありがとうございました」とつぶやきながら会釈する。そして、舞台のすそを見、笑顔でオペラ歌手の田村さんを迎える。
手を差し出し、ドレス姿の田村さんが舞台にあがるのを助け、笑いあい、再び胸に手を当てて客席に会釈をする。

それを見ながらわたしは、
「うそつきー(笑)」
と思っていた。

いや、別に「似合わねえよ」と思ったつもりもなく、「心にもない笑顔をしてー」と感じたわけでもない。わたしはわたしなりに、その日見せてもらったものを喜び、賛辞を込めた拍手を送りながらも、でも、それでも、舞台の上のクサナギツヨシをみて、
「うそつきー(笑)」
と思っていたのだ。

・・・こう書き出してみてわたしはふと思った。どうやらわたしは今回は(も?)書きながら考えている。出たとこ勝負だい(笑)。


「うそつきー(笑)」

これってもしかすると、今回の「椿姫」全般に対する、わたしの感想なのかもしれない。
彼の朗読の様子とか、演技とか、場の雰囲気とか、ありとあらゆることに対していろんな意味をふくめて、今回の舞台の感想を一言で言えといわれたら、
「うそつきー(笑)」
だと。

でもいくらなんでも、せっかくのクサナギの久しぶりの舞台、それも貴重な舞台を「うそつきー(笑)」で終わらせるのもひどいので、もう少し考えてみる。

ことさら批判するつもりは全然ない。
クサナギツヨシは「よかった」としか表現できないし、唯一不満は「これはコラボレーションとしてはどうだろ」ということだけで(後述する、かも←結局ちゃんとはしませんでした)、でも、なんとなく、なんとなくわたしに残る、肌がわずかにちりちりするような不思議な違和感。

クサナギツヨシはよかったのだけど、クサナギツヨシの朗読は、表現力はすばらしかったのだけど、でも、劇場で拍手をしながらわたしは、「・・・クサナギツヨシのいいとこってこういうんだったっけなぁ?」とぼんやりと考えていたのだ。

クサナギツヨシは朗読の中で、たくさんの役柄を演じ分けていく。
28歳男性として君はどうよ、というような、ほとんど子どものような心をもった有谷。この有谷という造型は人に対してほとんど無防備で、根拠とよべるような根拠をもたないまま信頼感なり愛情なりを素直にどかんとぶつけてくる。いや、ある意味アホだよ(笑)。これが非常に好意的な造型に感じられるのは、ひとえに、土田さんが感じた「クサナギのいいひと的部分」のなせる技なのだろうと思う。

物分かりのいい上司、笹倉。クサナギはとても美しい水分あふれる低音でこの造型を表現する。でもこのひとも、作りとしては子どもなんだよね(笑)。
実のところ、ほかの役柄、「椿」も「椿の彼古田」も、みんな子ども。なんというか・・・人に対する対応がとっても甘い。甘いというのはスィートという意味も含めて甘い。いいひとなんだよね結局。

主たるキャラクターがいいひと揃いの中で唯一の例外といえるのが、大ホール担当で、のちに係長になる真壁。真壁っていう男はクサナギツヨシの手にかかるとなんだかよくわからん、ひたすら「ヤな感じ」の人になる。セリフとして出てくるのが終盤で、だから描きかたが少ないせいもあるんだけど、でもこのひとひとり、作品の中で浮いている。あんまりだよ、というくらい浮いている。

なんだかすごくヤなやつなんだよねぇ、真壁。無機質な感じの、「単純にヤなひと」。
ここでの悪役でーす、って看板さげてるみたいな。

でもこのひと、与えられた仕事はきちんと、レベル以上にこなし、上司の顔色をちょっと伺うことも知っていて、自分の昇進にもきちんと興味がある。
ほんとは、彼、「社会人」としては一番まともなんじゃないかと思うんだけど。

朗読劇というのをほかのひとで体験したことがないからよくわからないところはあるし、ましてやこの本は今回の舞台のために、クサナギのために書き下ろされたのだから、クサナギ以外の人が将来的に演じることはないのだろうと思うからいちがいには言えないんだけど、多分、ほかの人が読んだら、それぞれの性格、関係性の印象が全然変わっちゃうような感じがする。
それはそれで、いいんだけど。

でも、この本、あまりにも、「クサナギくんはいいひと」を基準において、あるいはベースに置いていすぎないだろうか?

・・・っていうかクサナギの魅力は「無垢」で「いいひと」なとこだけにあるんでしょうか?

というのも。

「椿」という女の子は高校時代に遊んでて、エンコーとかしてた子で、La Traviataを見に来ることになったのも、ハゲオヤジにねだって連れてきてもらったのが最初。でもこの作品の持つ、そして主人公の高級娼婦ヴィオレッタの持つ魅力に打たれ、若いまじめな恋人、古田くんと出会い、自分の人生をやりなおそうとしている子。

その子が古田くんの実家に泊まりがけで遊びにいく。
「とってもいいお父さんとお母さん」に見えたのだけど、夜、ひとりで寝ている椿のもとにお父さんがこっそりと現れる。「椿ちゃんだよね?あの、椿ちゃんだよね」
古田くんのお父さんは、かつての椿のエンコー相手のひとりだったのだ。
強引に布団に入って来ようとするお父さんに、椿は必死で抵抗する。

・・・ここは短いシーンだが、このあたりのクサナギくんがすごくいい。
このお父さんの「ヤな感じ」は真壁の無機質なヤな感じと全然違う。もっと「人間くさい」感じ。愛情とか憎しみとか、そういう複雑な感情で捉えられるイヤさなの。そして必死に抵抗する椿、ここでクサナギから伝わってくる切なさがすごく深い。
行にしたらほんとに20行程度、語ってる時間にしたらせいぜい数分でしょう。

でもこの辺のクサナギくんの「人間」の表現力が群をぬいてる、とわたしは感じたのだ。最後のあたりみたいに無理に(別に無理してるわけじゃないんだろうけど)、気持ちを高めて、高めて、それをぎりぎり抑えて、涙をたたえて読まなくても、このシーン、彼が読んでるだけで、とてつもなくはっきりと情景や二人の気持ちが浮かんできた。伝わってきたのだ。

でも、このあと、話は意外に平凡な悲恋に向かって行ってしまう。古田くんと椿の別れ、椿の死病、そしてその死の床にかけつける古田と有谷。
ここを「平凡」なんて言ってはいけないのかもしれないけど、でもなんちゅーか、割合平面的な印象ではあった。

確かに、確かに最後に向けてのシーン、椅子に腰掛けるクサナギ自身が非常に美しくもあり、その声から、表情から、いいひと一直線有谷くん&古田くんコンピの真摯な思いが伝わってくるいいシーンだったけど、でも、その限りなく美しく悲しい演出をもってしても、わたしを圧倒させる、というところまでは行かなかったように思う。

結局クサナギのこの舞台で、わたしが一番なにかが伝わってきたと感じたのは、「いいひと」の部分じゃなくて、「彼が自分の感情を最大限に高めた瞬間」でもなくて、わずか数分の、「古田の父と、椿の、人間的な複雑な愛憎」の部分だったのである。

そこは、彼が「作った」んじゃなくて、彼の中から自然に出てきたものじゃないかとわたしは思ったのだ。
そして、そこが、その、人間の感情の交差を自然に表現できるところが、彼の本来の魅力なんじゃないかと、わたしは思ったんだと思う。

そうだ、だから、とても美しく舞台は終わり、華やかにつづくカーテンコール、わたしは彼を見ながら
「うそつきー(笑)」
と思ったんだ。

美しくて華やかな、ハイソな(笑)感じ、舞台の上の彼はそんな空気の中にいて、それは確かに似合ってはいたけど、なんかどこか「違う」と思ったんだ。

クサナギツヨシがオペラ「椿姫」と関わる意味は、「クラシックという高級なもの」に触れるためではなく、「クサナギくんいいひと全開」を見るためではなく、「クサナギツヨシの声がいいから聞いてるとうっとり」でもなく、本来、「椿姫」という古典的名作が持っている「ほんとうの意味」「ほんとうの深さ」「ほんとうの魅力」に触れさせてくれる可能性があったからだったんじゃないのか、と思ったんだ。そう、「椿」がそれにひかれて人生を変えようとしたように。

・・・書きながら納得するなよ(笑)。

川本が「スタアの恋いいたい放題(タイトル違いましたっけ?笑)」で触れていた、「テクニック」の問題、結局わたしもそれに非常に近いところで引っかかって、うろうろしているのかもしれない。

うまい役者さんであることはうれしい。どんなときでも、安定した、いい演技を見せてくれるのはうれしい。「クサナギの泣きのシーンはすべてをかっさらう」そういわれたらそれは大変うれしいだろう。

でも、それだけじゃない。
っていうか・・・「それじゃない」ような気がするんだ。

クサナギには、オペラ歌手でもピアノでもない、もっと「言葉で表現する者」としての一番基本的な、きっちりした「コラボレーションの相手」が必要なんじゃないだろうか。

つまり、「ほんとうの言葉」が。

「彼が伝える」のではなく、「彼のなかを通過したほんとうの言葉」が、わたしたちに何かを伝えてくれるから、わたしは舞台のクサナギを愛してやまない。それが、「役者、クサナギツヨシ」が持つ希有な魅力、能力なんじゃないだろうか。

脚本を批判しているつもりはない。しみじみ、いい物語だったとは思っている。
しかし、クサナギツヨシ。あなたが演じた「有谷」は、あなたにとってほんとうに、「そはかのひと」でしたか?


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