VOICE Reading 椿姫 with くさなぎつよし


〜邂逅〜
2002.6.30 白石ホワイトキューブ公演観劇記


naomi


一番よく覚えているのは、
『ああ、神様! 私の短い命も終わる』が歌われているシーンです。
朗読者の傍らのテーブルにろうそくが灯り、
その左肩越しに、ピアニストが黒い服を着てピアノに向かう。
正面には、ヴィオレッタ。
真っ赤な衣装を着て、いすにもたれるようにして歌い上げていました。
朗読者は足を開きかげんにして膝にひじを乗せ、前かがみになって、
ややうつむき加減の姿勢をとっていて、薄暗い中、ひっそりと、
でも、強い何かを放って座っていました。
その3人の姿が同時に目に入るポジションに座っていた幸運な私は、
その美しさに酔いしれていました。


サントリー小ホールでの初演と、今回の舞台はまるで違うものでした。
白石公演の昼の部と、夜の部も、印象の違うものでした。
人の演じるものだから、その時々によって、舞台は変わるでしょう。
それ以上に、わたしはこの舞台が生きているのを感じました。
そして、私を含む観客全てが、この舞台の構成員である事を感じられました。

くさなぎ君の声は、サントリーのときより大きかったです。
第一声を聞いて、初演の第一声を聞いたときに、妙にほっとしたことを思い出しまし
た。
「『業務日誌』!」いつものくさなぎ君の口調で、早さでした。
アナウンサーがやるような朗読じゃないんだ、くさなぎ君流の舞台なんだ。
第一声でそう確信できたとき、とっても嬉しくなりました。
そして、わくわくしてストーリーに耳を傾けました。
――本来の『朗読』というより、『一人芝居』という感じ。
サントリーホールで初演観賞後、アンケート用紙にそう書きなぐってきた事をはっき
り覚えています。

初演でこれからの課題だと感じた大きな点は、『わかりやすさ』でした。
オペラにある程度親しんでいないと、楽しみきれない構想になっていたのです。
それを解決するためでしょうか、再演では幾つかの演出上の変更点がありました。
舞台中央あたりに幕があり、その前に朗読者。
幕をスクリーンにして、オペラ椿姫の背景や白い椿の映像が映し出されます。
スポットが当たると、映像の中にピアニストとソプラノが浮かび上がります。
アリアが終わるとさっとスポットが消え、
オペラの風景が、ピアニスト、ソプラノともに消滅するという仕掛けがありました。
その場面切り替えのタイミングも、昼の部と夜の部では違ったようです。
その分舞台にテンポが生まれ、朗読者がより調子付いていきました。
ヴィオレッタの傍らに、初演にはなかった椅子が置かれたりしていることも、
オペラの世界を、以前より解り易く表していました。

くさなぎ君が、観客の反応を感じて読み進めていることは、はっきり解りました。
例えば昼公演で笑えなかったところで、夜公演では笑いが起きると、
語りはますます冴えを見せて、ますます笑わせ、時にどきりとさせました。
そして、客席の反応を感じてか、アリアも声色に艶を増していきました。
客席の闇の中、ホール全体が一つの舞台を形成しているという、一体感を感じまし
た。

3場のアリア『あなたは約束を守ってくださった〜』。
ヴィオレッタの熱演に、オペラの情景を思い浮かべていた時、
私、くさなぎ君の視線を感じたんです。
とっても強い視線でした。
びっくりして、目を合わせたのですが、すぐ目をそらしたのは、
字幕も見たかったし、ヴィオレッタも見たかったから。
その視線に、何らかの彼の気持ちを感じたのですが。

実は、初演のときも私はくさなぎ君の視線を感じています。
あれも、田村麻子さんのアリア、
『ああ神様!私の短い命も終わる』が歌われているときでした。
アリアの情景と、椿ちゃんの運命が心の中で重なり、胸が急に苦しくなったとき、
くさなぎ君、確かに私を見ていたと思います。
絶対に苦しげな顔をしていたと思う私に「どうして?」と、問い掛けるような、
彼自身が自問しているようなものを、その視線に感じていました。

ヴィオレッタの姿が消えて、次にくさなぎ君の語りが始まった時、
物語は佳境へ。椿ちゃんを探す古田君が登場します。
真壁が、笹倉部長が、椿が、そして有谷くんが、今まで以上に生き生きと動き出しま
した。
語りに熱を感じました。物語の世界にぐいぐい引き込まれていきました。
サントリーのときは、椿ちゃんの語りにちょっぴり色気を感じましたが、
今度はそれは感じなかった。くさなぎ君のいつもの声で、椿ちゃんの心を教えてくれ
ました。
初演のとき感じたような技巧は、ほとんど感じなかったです。
それからぐいぐいと、物語に吸い込まれていき、
椿ちゃんの心に触れて、ヴィオレッタの思いが椿に重なり、
涙がぽろぽろとこぼれました。
そして、ふと、「目の前でクサナギツヨシが熱く演じている」のを感じました。
かつて、彼の『蒲田行進曲』のヤスが、多くの人の胸を焦がしたと聞き、
TVで彼の演技に触れ、強い感動を覚えながら、
彼の舞台を、生の舞台を見たいとずっと願っていた私は、
今まさに、目の前に、その、願い通りの風景が展開されているのを感じたのです。
初演では、動きたいのに動けない役者、というじれったさを感じたのですが、
でも今度は違う。声だけで、言葉だけで、何かを表現しようとしていました。
朗読者の姿のまま、椅子に座ったまま、何かを表現しようとしていました。
もしかしたら、あれが、みんなが教えてくれたヤスの片鱗なのか・・・
そんなことをおぼろに感じました。

そう思ったら、何かこみ上げてくるものを感じ、実は隣に座った友人が心配するくら
い、
肩を振るわせ、声を立てずに泣きじゃくってしまいました。


アリアが始まりました。
冒頭に挙げた素晴らしい3ショットが目の前にありました。
その風景に酔いしれながら、涙を流しつづけ、それを心地よく感じていたとき。
そのときまた強く視線を感じました。
TVで知っているくさなぎ君の、どんなキャラクターとも違う、
どこか、満足げなものを感じながらも冷静な視線でした。

この時の野田浩子さんのアリアは、今回白石キューブで聞いた中で、
抜群に素晴らしいものでした。
彼女自身もまた、この公演を通じて磨かれ、
より素晴らしいものを掴んでいる事を感じました。
クサナギツヨシの朗読が野田浩子のアリアでドラマチックに彩られ、
しびれるような感動を受け取りました。

ヴィオレッタは最後に『エストラノ!(不思議だわ)』と叫び、
死の苦しみから、つかの間逃れます。
これから、また生きられると歓びの声をあげ、息絶えます。
(何度聞いても、このシーンには涙もろいです)
その後、朗読者は立ちあがりました。それは闇で私を見つめていた人とは別人でし
た。
そしてそれは、いつものくさなぎ君でもありませんでした。

朗読者は語り終えると、満足げにエレガントにお辞儀をして去って行きました。
歌手が現れました。乾杯の歌。
乾杯の歌は本来、コーラスと、男声女声4人のソロとで歌われる賑やかな曲です。
涙が引きました。
メロディを追いながら、出演者と共に舞台を一緒に楽しんだ満足感で満たされまし
た。

歌が終わる頃、朗読者はクサナギツヨシに戻り、
野田浩子さんを拍手で称えながら、にこやかにステージに現れました。
そして、ピアニストと共に3人でお辞儀をしてくれました。

文句ナシで、スタンディングオベーションに値する舞台だったと私は思っています。
拍手は絶えることなく続きました。
パンフレットにあった、作・演出の土田英生さんの言葉には、
『異種格闘技戦』とのタイトルがついていましたが、
3人手を取り合ってカーテンコールに答えていただいたように、
(拍手に答えて何度も3人で出てきてくださいました)
朗読者と、声楽家と、ピアニストがそれぞれかもし出す3つの世界は見事に融合し、
手を取り合って、この作品独自の世界を見せてくれたように思います。

サントリーホールで生まれて、びわ湖ホールで演出を変えて再演されたこの舞台。
私には、この舞台の完成形が私が観賞できたものだったのではないかと思えるので
す。
だからこそ、再演を強く希望します。
何度も何度も演じて、今度はしっかりと熟成させて欲しい。
そして、もっとたくさんの人を、つかの間夢の中へ誘い込んで欲しいと熱望します。



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