「TEAMスペシャル 感想」
〜つながっている、ということ。〜
松本 有紀
役者クサナギツヨシが、素晴らしいストーリーに出会ったときに起こす奇跡がひとつある。
彼の演技は、見ていたわたしたちに、わたしたち自身の言葉で、わたしたち自身を語りたいという衝動を与えるのだ。
クサナギツヨシの芝居を見る。感動して、涙を流す。心が何かに触れてこまかく震えだす。
「このきもちはなんだろう?」自分の中でどうしてもそれの意味を知りたくて、いっしょうけんめい考えてみる。考えてみるだけでは収まらなくて、人に向けて話し出す。長い手紙を書き出す。
話していく中で少しづつ気づく。クサナギツヨシから受けたこの感動の意味を自分自身できちんと知るためには、自分のもっと奥深いところを掘り出してみなければならないのだということに。
最初から、全部話さなくては、あの心の震えの理由は掴まえられないのだということに。
だから人に向けて、話は、手紙はどんどん長くなる。
いつの間にか、わたしたちは自分が生きてきた道のりについて話し始める。
そしていつの間にか、自分が生きてきた道のりで、受けた傷のことを話し始める。
そう、役者クサナギツヨシは、わたしたちの心の闇に働きかけてくる。
時にはそのことが恐ろしくて、目をつぶってしまいそうになることもあるけれど、それでもわたしたちはいつか話し始める。
泣きながら、そして、きっといつか笑えるだろうと信じながら。
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「TEAMスペシャル」。
クサナギツヨシが、「財産になるドラマだ」と言い切りました。わたしも、同じことをいいます。
このドラマは、見ているわたしにとっても、財産になるドラマです。
今回のスペシャルでわたしは、
「人は、一人では生きていけない」
このメッセージを受け取ったように思います。
今回出てきた言葉のなかで、とても印象的だったのが、「いじめの連鎖」という言葉でした。
連鎖。
これはもちろん、負の連鎖です。でも、とにかく、そんな形でも、人はだれかと繋がらずに生きてはいけない。いじめられた教師は生徒をいじめ、いじめられた生徒は親にその苦しいきもちをぶつける。
でもその、悲鳴のようなつながりが親が逃げ出したことで切れたとき、世間からは無意味とも、衝動的とも思われるような殺人が起こる。
親が逃げたことについて、由貴が、「だってわたしは捨てられたんですよ」って言っていたのも印象的でした。でも、親はそうは言っていなかった。「このままだと寝ているあの子の首を・・・」親もまた、自分と繋がっているものを切らなくてはならない恐怖に耐えられず、逃げ出したのです。でも子は、それを、切られた、と誤解したのです。
いずれにしても、人は一人では生きていけない。
綴の心に、深い深い傷を与えた少年もまた、一人では生きていけないことへの哀しみに、自暴自棄になったものの一人ではありました。でも、その少年は青年となり、自分が一人では生きていけないことを、正面から見直そうと立ちあがっていました。
少年が人々に与えた傷はどれほど深いものであるのかを少年は日々知り、そしておそらく自分の残りの人生は赦しのためだけにあるのだということを分かっていても、少年は青年となって、一人では生きていけない、この世の中に戻ってきます。
(誤解を恐れず言いますが、この少年にとって、ゆく道はただひたすら荒野なのだろうと思います。犯した罪がどのようにひどいものであろうとも、その罪は、決して許してはならないものであろうとも、わたしはその少年の、荒野へ立ち向かう気持ちに拍手を送ります。このドラマに、「更正した少年」を配置した君塚良一の「祈り」にあわせて、現実もかくあるようにと祈ります)
綴の傷ついた心を癒したいと願う丹波、そして風見。
丹波はその思いを、転化した怒りを外へ向け、風見は内側深く深くに入り込んでいく。
「ぼくは、なにもしてあげることができない」
大好きな人と、一番深いところで繋がっていたい。でも、その、一番深いところがつかめない。一番深いところを助けてあげることができない。どうしていいのかわからない。
ぽろぽろとこぼれてくるエピソードで想像する限り、風見勇助という造型もまた、成長していく過程のどこかで、「人と繋がっていること」に失敗した、あるいは失敗させられた経験があるように思います。
でも、そんな風見だから、綴の思いに呼応できたのかもしれない。
人が繋がって生きていくことは、楽しいことだけではありません。悲しいことだって相当多い。誰だって、自分のまわりの人間関係に疲れ果て、一人孤独に部屋で泣いた日もあるでしょう。わざわざそれを選んだ日もあるでしょう。
でもそれでも、また外に出たいと思うのは、人と繋がりたいと思うのは、それが、人間だから。
引きこもる少年少女たちが問題になっています。いまや引きこもりは少年少女だけではないとも聞きます。
彼らはおそらく、「人と繋がりたくない」のではない。「人と繋がっていることにつまづいた」だけなのです。でもそれは、単に「つまづいた」のではなく、「つまづかされた」という面もある。
一人では、生きていけないのに。自分がどんな悪いことをしたかわからないのに。それなのに、切り離されたと感じた恐怖。もう二度と、こんな思いはしたくない、そこまで思いつめてしまう魂。
人は一人では生きてはいけないのだから、引きこもりの子の悲しみは、その子の側面からだけ語ってはいけないはずなのに。
じゃあ、なぜ、人は一人では生きていけないのか。
その、究極の、そして原始の回答も、ドラマの中にはちゃんと用意されていました。
それは、男と、女から生まれる、あたらしい命。男と、女と。両方いなければ、命は決して生まれない。
人は最初から、繋がるために生まれてきたんです。
その結果であり、その始まりとして、生まれてきたんです。
2時間弱のドラマでした。でも、君塚さんがわたしたちに伝えたかったことは山のようにあって、しかもそれを、きちんと脚本化してくださっていました。
それに応えた俳優たち。
とにかく、素晴らしいドラマでした。
どんな形でもいい。もう一度、わたしはこの人たちのドラマが見たいです。
君塚さん、スタッフのみなさん、キャストのみなさん。
ありがとうございました。
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クサナギツヨシの、最近の演技のかたちは、わたしの表現能力の範囲を超えている。
放送を、わたしは夕食を取りながら見た。熱心にひたむきに見ていたわけではなかった、ということなのだが、それでも脚本の力は強く、わたしは夕食を取りながら何度も涙しそうになった。
でも、クサナギツヨシに関しては、
「なんかツヨシくん、いつもどおりだなー」って思ったのである。普通に、すごいな、って。
でもどうしても気になって、その夜もう一度ビデオを見直した。
・・・クサナギツヨシは、普通じゃなかった。
風見勇助は激さない。ずっと静かに、静かに自分の思いを内にためている。
だから、ちらちら見ている限りは、印象的な場面が少ない。
しかし、よく見ていると、セリフひとつひとつで動く表情がただものじゃない。
内側の、一つ一つの思いにあわせて、かすかに、微妙に変わっている。
それが実は、ドラマ全体の流れに大きな効果を与えている。
演出家つかこうへいがよく言うことばに、「まわりをうまくする役者」というものがある。
これはわたしにはなかなか分かりにくい言葉で、おそらく天才演出家が、演出をつけていく過程で自分だけが知ることができる、非常に微妙な空気の流れの方向を、いつのまにか支配している人、とかそういうことなのではないかと思っている。
だから多分、一般人のわたしがその言葉を聞いただけですぐ思いつくような、「雰囲気を盛り上げて、引っ張っていく人」とか「まわりを逸らさない魅力のある人」とかそういうこととは、とても似てるけどでもそこからほんのちょっとずれている事柄なんじゃないかと思う。その「感触」は多分永遠にわたしにはほんとにはわからない。
でも、クサナギツヨシに、わたしはその、「まわりをうまくする役者」というのをなんとなく感じることがある。
彼の才能は、どんどん不思議な方向に伸びているような気がする。
「人を立てることで人を輝かす」のではない。「人の上に立って輝く」のではない。「人を映す鏡」でもない。
彼が以前、ドラマの脇役をしていたときに、わたしが望んでいた一番のこと、「この人、将来舞台とかで、“クサナギツヨシが脇で出てるとなんとなーく場がしまるんだよね”って言ってもらえる人になるかもしれない」と思っていたその能力を、主演の場でも、そのまま自然に持っているような気がする。クサナギツヨシが全体を覆っていて、でもクサナギツヨシは全体の中の一人であって、そして今は中心にいて・・・でもやっぱり全体をやわらかく包んでいて、それは見ているほうのわたしたちにまで静かに浸透してきて、わたしたちはいつのまにか自分自身の生きてきた道を話しだす。そして・・・ええーい、だからわたしの表現能力を超えちゃったんだってばー(爆)。
クサナギのドラマ、これからもたくさんたくさん見たい。クサナギがどこまで行くのか、どこまで深くその力を伸ばしていくのか見ていきたい。
でも、やっぱり一番に願うのは。
また、生の舞台でのツヨシが見たいなー。