空間を歪ませる二人の役者/勝新太郎とクサナギツヨシ

 内田勝利

 

 

 

 勝新太郎を引き合いに出すことに、ちょっと抵抗を感じる人もいるかもしれない。一見、まったく異なるタイプの役者である。しかし、どうも僕には、この二人が「同じもの」を持っているような気がしてならないのだ。

 

 勝新太郎は天才である。僕がそのことを確信したのは、1994年の「不知火検校」で舞台上の勝新太郎を観たときからだ。ちょうど、薬物関連の事件で世間を賑わせていた直後の舞台で、偶然、ネットの知人が脚本を担当することになり、観る機会を得たのだが、今でも、見終えた時の印象はよく覚えている。

 不知火検校の「検校」とは、按摩・鍼灸・琵琶・三味線を生業とする盲人たちの総元締めのことで、江戸時代後期には、盲人保護のために金貸しも許されていたため、巨万の富を得ることができた。勝新太郎は、悪業非道の限りを尽くす不知火検校の男の誕生から年老いて死ぬまでを演じる。

 男の誕生の時には、父親を演じるのだが、それが僕には勝新太郎には見えなかった。どうみても30代か40代の男の身体の「線」なのだ。当時、61才だったはずなのにそうは見えないのである。たとえば、デ・ニーロは映画の役柄によって、体型を変えるという。しかし、勝新太郎は、舞台上で瞬時に、それをおこなってしまうのである。

 そして、不思議な現象が起こる。勝新太郎が演じる「男」が、文字通り「年をとっていく」のだ。男が年老いて死ぬまでを演じているわけだから当然なといえば当然なのだが、勝新太郎だけが、本当に、徐々に、年をとっていくように見えるのである。ここで、さらに、恐るべきことが起こる。周りの役者が、その「時間の流れ」についていけないのである。それは、まるで、勝新太郎の周囲だけの空間が歪み、その中だけで、時間が急速に進行しているように見えるのだ。

 

 僕は、クサナギツヨシも勝新太郎と同様のことをしているのではないか、と思うのだ。誤解を恐れずに書くと、僕には、クサナギツヨシは、自らが作った空間の中で、身体を動かし、言葉を発しているように見えるのである。「空間、先にありき」のタイプの役者だと思うのである。

 ただ、クサナギツヨシの場合、その「空間」が広く、他の役者にまで影響を与えているようなところがある。

 たとえば、西村雅彦の演技は、舞台俳優にありがちな演技の濃さが目立つものだ。それが、「TEAM」では、ほとんど見えない。また逆に「メッセンジャー」の飯島直子や矢部浩之にも、影響を与えているような気がしてならない。

 同時に、役者としてのクサナギツヨシを他者に理解しがたいものにさせているもの、これが原因といえないだろうか。たとえば、勝新太郎ならば、舞台上の他の役者の比較により、すごさを語ることができる。しかし、役者としてのクサナギツヨシの場合、他者も包括してしまうのである。となると、「蒲田のクサナギ、すげーよ」とか、「TEAMのクサナギ、いいよね」というような言葉しかでてこない。

 

 クサナギが、次に、どのような空間を見せてくれるのか。楽しみである。

 

 

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