信頼が生み出したヤスのほほえみ

松本有紀

 

  「小夏ぅ、がんばれ。今本官も、希望に向けてスタートするであります」

 クサナギツヨシを考えるときに、しばしばわたしの頭に、「信頼」という言葉が浮かぶ。
彼はまず、「人」を信頼する。彼がしばしば口にする、「僕は人から管理された方がいい仕事ができるんです」(Tarzan 317号)という言葉。これは決して、人任せという意味ではない。彼自身が誰か「管理される相手」を深く信頼しているからこそできることだ。
そして彼は、「物」を信頼する。それも、「人」を信頼するのとほぼ同じ地平を持つ「信頼感」である。

「Gパンって安心させてくれるんだよね。仕事終わって部屋に帰ってGパンが掛けてあると、それだけでホッとする」
「大切にしているモノが目の届くところにあるだけで、それだけで気分が穏やかになる。モノへの愛情ってそういうもんじゃないですか?」
「モノって自分が大切にすれば、命が吹き込まれると思う」(すべてTarzan 317号)

 彼のこれらの発言は、彼のモノへの「愛着」というよりも、「信頼」という言葉の方がフィットするようにわたしには思える。

 そしてさらに彼は、「言葉」を信頼する。

 1999年上演の「蒲田行進曲」は、つかこうへいによれば「青春のラブストーリー」(月刊Feature 1999年4月号)であるが、ヤスの側面からだけ見た場合に、これはヤスの自己回復のストーリーであるとわたしは思う。

 ヤスは、小夏、銀ちゃんへの愛に悩んだあげくに、典型的な「ドメスティックバイオレンス」の加害者となる。「ドメスティックバイオレンス」とは、夫から妻への暴力を中心とした、恋人、婚約者などに対する、男から女への暴力のことをいう。この場合の暴力とは必ずしも身体的暴力に限らず、言葉の暴力、性的暴力などを含む。ヤスと小夏の後半のシーンには、これらの暴力はすべて登場する。

 クサナギは、そのシーンひとつひとつを、実に丹念に演じていく。セリフの中で、くるくると揺れ動くヤスの思いを、その言葉ひとつひとつを信頼して、その言葉どおりに素直に表現していく。そのうちに、そのセリフがクサナギ自身のなにか内的なものに触れ、演技がリアリティを増していく。

 やがてクサナギツヨシによって全ての思いを出しつくされたヤスは、誰の助けも借りることなく、自分自身で、その暴力の果てにある解決への道に気づく。この時ヤスは、自らの暴力行為から完全に解放されることになる。クサナギが、与えられた言葉を信頼して演じたことで、この流れが実に自然に、説得力をもってわたしたちに伝わって来たのである。

 そしてヤスは、階段落ちへ向かっていく。ヤスは「かっこいい銀ちゃんのアップ」を撮らせるために、自分の死をかけて、刀を振り上げ階段をかけ上がっていく。

 その時、客席に完全に背を向けてしまうためにヤスの顔が見えなくなる最後の瞬間、ヤスが、銀ちゃんにほほえみながら切りかかっていったことに気づいた方も多いに違いない。

 「蒲田行進曲」上演に際して、つかこうへいは、クサナギツヨシには特に演出をつけていないと再三発言している。だからわたしは、あのほほえみはおそらく、クサナギ自身が選んできたものだと思っている。

 わたしは、このシーンでのクサナギヤスの「ほほえみ」に気づいた時に総毛立った。気づいて以降は、その「ほほえみ」を確認するために劇場に通ったといっても過言ではないほどである。それは確かに、「ヤスを取り巻いていた全ての困難からの解放」を表現するのにもっとも適したものではあったのだけれど、クサナギは何故、そこで「ほほえみ」の演技をしたのかが、なぜそこで、死へ向かう恐怖にゆがんだ顔ではなく、「ほほえんで」向かっていくことができたのかが、わたしにはずっとずっと謎であった。

 そしてわたしはある時唐突に気づいた。その謎に対する答えは、階段落ちに向かう前のヤスの、最後のセリフにあるのだということに。

「小夏ぅ、がんばれ。今本官も、希望に向けてスタートするであります」

 クサナギは、この言葉を信頼したのである。この言葉が意味する通りに、彼は階段落ちに向かうヤスを表現したのである。死に向かってではなく、「希望に向けて」スタートするために、クサナギヤスは、あの、神々しいまでに美しい「ほほえみ」をたたえて、銀ちゃんに切りかかっていったのである。
 
 もうすぐ、蒲田行進曲の再演が始まる。今回、クサナギヤスに新しいセリフが与えられるのか、そのままなのか、それはわたしには分からない。しかし、クサナギ自身が前回の公演から1年弱の間に、きっとさらに深めていったであろう、自分自身への信頼を含めた、あらゆるものごとへの信頼が、どんな風に再演のヤスに投影されていくのか、今から楽しみでならない。

参考資料:「ドメスティック・バイオレンス」 草柳和之 岩波ブックレットNo.494 

 


 

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