「不器用な、伝達者 ツヨシ」

サクヤ

 

ヤスと、ツヨシの共通点は、不器用だということだと思うんです。
ヤスは、自分の気持ちの表現に不器用で、小夏につらくあたるのも、ヤスなり、愛情表現でしたね。

ツヨシは、ものまねに、不器用で、何でも、ツヨシフィルターを通すと、別物になってしまう。
それが、如実に現れたのが、「スマスマ」の、古畑拓三郎ではないのでしょうか。
木村君の、完璧なまでのなりきりに対して、われらがツヨシの、へたれ草泉、独特の、味がありました。
あれが、もしかしたら、ツヨシの武器になるのでは、と思うのです。

ツヨシの特性は、不器用さと、独特の感性なのではないかと思うのです。

前に、まことさんが、「嘘のない演技しか出来ない」と、書いてらっしゃいましたが、もしかしたら、不器用ゆえに、「自分が感じたままにしか、表現できない」のではないかと思ってしまったのです。
他人を真似るとか、演技を盗むとか、形態から発生する、演技ではなく、内面から出てくるもの(自分が、感じ取ったもの)を、蒲田では、つかさんの言葉を、表現しているのではないのでしょうか。

ツヨシは、演技者ではなく、伝達者なのではないのでしょうか。
不器用ゆえに、一生懸命、全身全霊で、伝えようとする、だからこそ、心を打たれるのではないでしょうか。

産経新聞のインタビューで、ヤスは、自分の心が汚れたら出来ない役だと言っていましたね。
普段の自分の心が純粋であるかどうかで、善し悪しが決まる、演じるたびに、自分が、試されると。
それを読んだとき、やっぱり、ツヨシは、心の鏡に、ヤスを映して表現してるんだなーと思ったんです。

今回、つかさんが、ツヨシを風と評し、演技をしていないから、演出のしようがないとおっしゃってましたね。
前に、「おいしい関係」のころだと思いますが、ドラマ関係者の、ディレクターか、プロデューサーの方が、
「ツヨシの演技は直しようがない、本人が感じたままに演じているからと、彼の演じたものを、そのドラマの場面に当てはめるのだ。彼は、平成の、笠智衆だ」
といっていたことがありました。

これって、同じ事では、とフト思いだしました。

ツヨシは、不器用で、頑固だから、こうと思ったことは、たとえ相手が誰であろうと、曲げないところがある。
つかさんも、苦労なさったんだろうなー。
歯を、だめにするくらいですものね。
ツヨシって、本当に、手ごわい、パフォーマーだったんでしょうね。
だから、天才とか、風とか言って、演技指導を投げ出したくなったのかしらなんて、思ってしまう私は、いけないファンでしょうか。
でも、見捨てないでほしいなー。
まだまだ、発展途上の人なんだから。

私たち(?)ツヨシに、魅入られてしまった輩は、見守りつづけるしかないのでしょうね。

それにしても、カーテンコールの笑顔には、本当に参ってしまいます。
とろけるような笑顔というか、凍てついた心も溶かす笑顔というか、ドーンと重くなっていた心に、一気に春風を送り込んでくるようです。
本当に、彼は、妖怪かもしれない。


 

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