キリストを体現できる役者

まこと

 

 

「ああ、まただ・・。」と先日「蒲田」をはじめて見終えた途端に思いました。
「また、草なぎ君はキリストを演っている・・。」と。

思い起こせば、「いいひと」もそうでした。ある意味では「TEAM」もそう。
まず、人の世にはあり得ない愛と受難の存在を、いともカンタンに演じている。

昔「カラマーゾフの兄弟」を読んで、末っ子のアリョーシャにひどく惹かれたものの、果たして彼の存在は成立し得るのだろうか、と子供心にもひどく疑問でした。
文学とは、たとえそれがその場限りの大ウソであっても、読む者に完全に信じ込ませる、それができてはじめて「成立」し得た、ということができるように思うのですが、その時の私は果たしてアリョーシャの存在を信じることができたのか?・・今となっては想い出は定かではありません。

ドストエフスキーがキリストをなぞらえたといわれるアリョーシャ。
人の世の業の全てを背負ったかのような呪われた一家に生まれながら、天使のような愛に満ちて、それ故に深く傷つき、苦悩しつつ、周囲の全ての人々にあまねく救いを与える彼。
ついに書かれることのなかった完結編では、なぜかその天使のような彼が、当時のロシアの民衆の父なる神ともいうべき皇帝に刃向かう暗殺者となり十字架にかかるべき運命を負っていたといわれています。
同じ作家の「白痴」や遠藤周作の「おバカさん」においては、結論としてキリストは現代において成立しえない、という文学上の敗北でおわっていましたが、唯一「カラマーゾフ」のアリョーシャでは、未完故にか、それが成立しかかっていたように思います。

話を元に戻しますと、「蒲田」においてヤスは登場のはじめから、既に人間離れした目をしているように私には見えました。
人間離れした気味の悪いほどのかわいらしさ。
非常に澄んだ冷たい目をして「銀ちゃん!銀ちゃーん!」とまとわりつく姿は、皆さん仰るとおり、既に魔物を感じさせる。
だから、後半のヤスの長ゼリフは、単にその魔物を陽の下に露にしたに過ぎないが、卑俗な人間の業をこれでもかというほど徹底的に語り、体現しながら、なぜ泥臭さが微塵も感じられないのか?
これが私には最大の衝撃でした。
というのも、つか先生の作品の(大変不勉強ではありますが私の解釈では)従来の持ち味とは、人間くさい泥臭さのなかに一粒光るダイアモンドというアンビバレントな快感、と観劇前から思いこんでいたからです。

ところが今回は、まったくその方法論が通用しない。
それは草なぎ君の演技の持つ、現代的なナチュラルさ、というのも大いにあるでしょうが、私には彼の中の魔物=本質的なものが、その人間的な泥臭さを超越させた、と受け取れました。

その本質的なもの、とは、彼の中のキリスト性です。

自分一人の業ではなく人間全ての業を、階段落ちという十字架を通して昇華しようとする キリストを、そっくりそのまま草なぎ君は体現し得ていた。・・・これは、まったくの奇跡、のように私には思えました。

キリストの存在を、その場限りとはいえ、観客に説得力を持って信じさせてしまう、そんなことのできる人間が、この世にいたなんて・・。
しかしそう考えてみると彼のカラダを終始一貫して包み込む衣装の深い青と赤は、聖母マリアを象徴する二色ですし、小夏に後ろから抱きかかえられる姿に、ピエタを見たのは私だけではないでしょう。
彼は、人に、人の世の不条理に絶望し、荒れ狂い、しかして天の啓示(=小夏と銀ちゃん、というより人間への絶対的な愛)を悟ると十字架に向かい、死に、そして復活するのです。
・・最後の「俺、銀ちゃんダーイスキ!」は「俺、人間ダーイスキ!」というキリストの叫びのように聞こえたのは私だけでしょうか?

ここでもう一つ考えなければならないのは、草なぎ君のヤスを貫く父性原理です。よく言われるように日本は母性原理の強い国です。

これは単に性別の違いを言っているのではなく、

  母性=全てを包み込む優しさ。全てを呑み込む恐ろしさ。
  父性=社会規律を教える強さ。切り離す厳しさ。

といったような、意味で、人間誰しもこの両面を持ち合わせているものですが、このどちらかが強いか弱いかのバランスで、その人の傾向がわかるといえます。)

「水に流す」といった言葉に象徴されるように、日本は、仏教的というよりか古来の神道からの流れでしょうか、森羅万象全てを包み込む懐の深さと同時に、ある意味居心地のいい、けれど一歩間違えれば「甘え」に堕しやすい共同体をつくる母性社会です。

ところが欧米をはじめとするキリスト教文化圏においては、激しくぶつかりあいながらも個人個人が自立して、内なる神の規律をよりどころとしながら生きているケースが多い。
父性社会といわれる由縁です。

両者の善し悪しは又別問題であり、双方に長所短所があることは現在しきりに言われているところですが、ここで注目すべきなのは、草なぎ君のヤスは全く「甘え」がない、ということです。

他の大部屋連中と違い、自分が銀ちゃんに尽くすと決めたら死ぬまで尽くす。
あろうことか、情に流された銀ちゃんを「ルール違反だ!」といって叱る。
人の道にはずれた小夏の家族をも徹底的に糾弾する。
それが愛する妻に対してであっても・・。

長丁場のラストで「あかちゃん。いじめないかなあ・・・。」
(僕を・・・)
と、哀しくもいじましいことをいっても、
センチメンタリズム=自分へのナルシスティックな愛が微塵もないため、それは全く「甘え」によるいやらしい響きを持たない・・。

本来つか先生は「蒲田」作劇において潜在的には大部屋連中を従えたあまえんぼで魅力的で残酷な日本的母性を象徴した銀ちゃんに対し厳しい父性的ヤスを配された様に思うのですが、日本において従来そうした男優が存在し得なかったため、ある程度母性=「甘え」の残った、つまり泥臭い人間くささいじましさが従来のヤスの持ち味となっていたのではないでしょうか?
初演や再演を見ていないため、全くの想像なので、間違っていたら本当に申し訳ないのですが、それほど草なぎ君の「甘え」を排した厳しい人物造型は日本では珍しいものだと思う。
少なくとも私は彼以外知りません。

ところでここで思い出して欲しいのは、キリストとは本来父性原理に基づく存在であることです。

彼は「愛の人」ではありますが、それは森羅万象の全て、衆生の全てをあまねく慈悲の心で包み込む、という日本的な母なる神の愛ではなく、信じよ、されば救くわれん、つまりある規律、ルールを遵守しさえすれば娼婦も罪人も救われる、という大変厳しい、条件付きの愛なのです。

・・・しかし、それでは全ての人を救うことは到底不可能である。

であるからして、キリスト自身が、全ての人の罪を背負って身代わりとして十字架にかかることで、全人類の救済を達成しようとしたのです。
たとえ神の実の(?)子であっても、十字架による刑死という厳しい条件を正統にクリアしなければならなかった。
我々日本人から見ると、本当に厳しい、厳しすぎる論理です。しかし、キリスト教の生まれた背景、すなわち荒れ地のような自然環境、ローマ支配の限界的政治状況、といった大変過酷な状態においては、こうした厳しい規律にて人々が自分を律すること無しには生き残ることが難しかった、といわれています。

そうしてこのミレニアムの日本で親が子供を殺し、子供が子供を殺し、理由なき通り魔は捕まらず、放射能汚染を政府が人々に隠すような完全に世紀末の様相を呈する極東の島国で、完璧に父性原理を備えたヤス=キリストを奇跡的に得ることで、17年ぶりのつか先生の「蒲田」は、ある意味完成への道を歩み出せたのだと思うのです。

母性原理に毒された病的な現代日本の現状を父性原理を持ち込むことで、なんとか打破したい、そうした機運を今あらゆる分野でかいま見ることができますが、草なぎ君は演劇という場でそれを嘘なく体現することできる貴重な、本当に貴重な役者なのではないでしょうか。
現に「蒲田」は母なる神、古来から我々に巣くう「甘え」の権化・銀ちゃんを一刀両断にして食らいつくそうと恐ろしく厳しいヤスがとびかかっていったではありませんか?そうして、ヤスは返り討ちに合い、階段から転げ落ち絶命する。
しかし無駄死ではない。あの対峙により銀ちゃんの「甘え」だけは、ヤスは綺麗さっぱり打ち割ってしまったのだ、と私は見たい。

最後に復活して銀ちゃんと、小夏と赤ん坊と抱き合うヤスは実は全ての人間と愛をもって抱きあっているのではないでしょうか?
銀ちゃん=小夏であり、そして赤ん坊はこれから生まれてくる全ての赤ん坊でもあるわけです。

そして、もちろん観客席の私たちも彼のかいなにしっかりと抱かれてしまう。
心の奥に巣くっていた闇をまっぷたつに両断され、血を流したままで。

これが、数日前はじめて「蒲田」を観劇した後のなんとも気持ちの悪い、でも救われるような不思議な私の実感です。

そして、長い間私の中で懸案だったアリョーシャを是非草なぎ君でいつの日か見てみたい。

・・・こう思うのも、きっと私一人ではなく彼を真剣に最大限に活かそうとする作家が優れていれば優れているほど、イエスの弟子が数々の福音書を編んだように草なぎ君の多様な福音書を編まざるを得ないのではないか、書かされざるを得ないのではないか、と思うのです。

それは、この根強い母性社会日本ではけして宗教的には根付かないものではあるけれど文学としての芸術としての精神的な一つの楔となりうる、新しい時代を切り開く、草なぎ君はそんな可能性を秘めた、希有の人だと思うのです。

 

       

※筆者注※

なお、拙文のキリストは、宗教的な意味ではなく、純粋に学問的な位置づけで、「人類の罪を背負って十字架にかかった愛の人」という単純な意味で使用しおりますので、誤解や曲解多々あろうと存じます。信仰上気分を害された方、浅い理解にお怒りの方等々、ここでお詫び申し上げます。

 

 

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