「水瓶座のヤス」

小山保代

 


時々、無意識の内に考え込んでいる自分に気づく。
「クサナギツヨシが、蒲田行進曲のヤス役を演じたと言うことは、どういう事だったのか?」
そして、同時に思う。
「ヤスと言う男は、どんな人間なのか?」
映画のワンシーンに命を賭すいちずさと、身重の女を殴り罵倒する残虐性を併せ持つ男。
「売れない大部屋俳優」と言う、どこにでも居そうな男は、乖離したニ極面を持つ、実はどこにも居ない男なのかもしれない。
あるいは、他者を甘受し、又は排除する両極の感受性を、マキシマムレベルで所有している、もう一人の「私」なのかもしれない。
そんな思考のループから抜け出すヒントが欲しくて、「クサナギツヨシ研究所」を覗いた。

演劇論研究室の川本さんの文章中に、こんな言葉があった。

「村岡安次。32歳。みずがめ座です」(「シンプルな村岡安次」より)


「ヤスは水瓶座なんだ…」
そう認識した時、「水瓶座のヤス」は、私の頭の中でビリヤードの玉のようにころころと転がって、「コン!」と小気味よい音をたてた。
当たった先にあった玉には、「子年のお岩さん」と書いてあるのが読めた。

歌舞伎俳優・中村勘九郎は,師であり父である故・中村勘三郎から、ある役の性格について,かつて以下のようなアドバイスを受けたことがあると言う。
「お岩さんっていうのは,お前、ヘビどしだと思っているんじゃないのかい。お岩さんは、ネズミどしだよ。」
お岩さんとは、歌舞伎の有名な演目「東海道四谷怪談」に登場する於岩である。
自分を死に追いやった夫を恨み、それゆえ成仏できずに幽霊として化けて出る女…と言えば、執念深いヘビのような女と思いがちだが、勘三郎は、於岩の元々の性根は、気の弱い、優しいねずみのような女であって、そんな女が、惚れた男に何度も何度も騙され続け、揚句の果てに逆上した様が幽霊であると言うことを、息子・勘九郎に伝えたかったのだろう。
以来、勘九郎は、お岩さんを演じる時には、彼女のかわいそうな部分を観客に伝えることで、最後がよけいに生きて来ると考えていると言う。

役者が役を演じると言うことは,その肉体と魂を使って、そこにいない人間を舞台上に存在させることだと、私は考える。
その時、役者が役の存在の手がかりとするのは、主に脚本と演出だが、役の設定もはずせないだろう。
「子年のお岩さん」や「水瓶座のヤス」は、役の存在にとって、重要な手がかりになっているのはないだろうか。
私には、「巳年のお岩さん」や「獅子座のヤス」では、別の芝居が出来上がる気がするからだ。

「水瓶座のヤス」のキーワードを得た時、彼の二面性に関して、私の中では得心が行った。
水瓶座の性格に関する記述を見ると、どれもこれも、舞台上の村岡安次の存在について、述べているように思えてならなかった。
水瓶座とは…

「クールな理論派だが、心の中には非現実的な理想がいっぱい」
「人間愛にあふれているが、相手の欠点を笑って許せない」
「常識には固執しないが、自説には頑固」
「自己愛が強いが、他人にも甘い」
「すぐに新しいものに飛びつくが、自分が思い込んだものにはしぶとい」
「大衆の中に埋没するのを嫌うが、自分と理念を分かち合える人とグループを作るのが好き」
「神経質だが、逆境に強い」   
「良く言えば『個性的』。悪く言えば『変人』」etc. etc.……



他人には理解しがたい水瓶座生まれの二面性は、本人の中では一貫性を持って帰着していると言う。
もちろん、占いの類は、「当たるも八卦。当たらぬも八卦」である。すべての水瓶座生まれの人間が、前述のような性格をしているとは、とても考えられないが、「水瓶座のヤス」は、確かに「蒲田行進曲」の舞台上に存在していると私は思う。

舞台後半、ヤスが小夏をいたぶるシーンで、私は、殴られ罵倒される同性の小夏よりも、暴力を振るうヤスに感情移入していた。
ヤスの中の、銀ちゃんへの愛、小夏への愛、映画への愛。この3つの愛の方向は、けして「丸く納まる」ものではない。
3つの愛は、ヤスの中で大きく育ち過ぎ、猛獣となって飼い主の手にすら負えない代物になっている。
ヤスは、手に負えない猛獣に対する苛立ちを抱えながら、一方では、これから起こるであろうことへの恐怖や、新しく生まれ出ようとする生命への畏怖の念などをない交ぜにした、一種の極限状態にある。
その極限状態を、小夏と言う触媒にすべて吐露することで、魂は浄化されて行く。
その芝居を見ていて、観客の私の魂さえ浄化されたような気がした。
舞台上のヤスを見ることは、持ちうる感情を最大増幅した自分自身の姿を客観視出来るチャンスに思えた。
だから、「ヤスは水瓶座」と認識したとき、ヤスと私の共通点を発見出来たようで、他愛もなくうれしかった。
そう。私も水瓶座生まれなのだ。

では、クサナギツヨシがヤス役を演じたと言うことは、どういうことだったのだろう?
クサナギツヨシの風貌は、いやみのない清潔そうな青年を感じさせる。しかし、絶世の美男子と言うわけではない。
言い換えれば、「ちょっと探せば、どこかに居そうな青年」であるように思える。
しかし、彼は、当代きっての劇作家兼演出家をして「大天才」と言わしめる、「類い希なる俳優」である。

クサナギツヨシと言う「どこかに居そうで実は類い希なる俳優」が、ヤスと言う「どこにでも居そうで実はどこにも居ない男」を演じる。
私は、クサナギツヨシの背負うものと、ヤスの背負うものにつながりを見出してしまう。
そしてなおかつ、クサナギツヨシは、ヤスの中に私自身の感情を最大限に増幅した姿を見せるから、私は、その演技に涙し、惜しみない拍手を贈るのだろう。

クサナギツヨシに、ヤスに、心の中に握手をもらった私は、そこに金が生えてくるのを信じている。
「ありがとう。宝にするよ。」と言いながら。
(文中一部敬称略)

 

 

<参考資料>
・中村勘九郎 著 「勘九郎とはずがたり」 集英社刊
・邱世嬪   著 「星占い−邱世嬪(キュウ・サイパン)の12宮占星術」 株式会社グラフ社刊

 

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