「舞台の上のクサナギツヨシ」

Jay

 

 

 舞台というものは作りこまれていて、何日もの打ち合わせ、稽古、リハーサルを経て、本番を迎える。出演者は役の人間の気持ちを自分のものとし、セリフを叩き込むのであろう。

 「クサナギツヨシは演技がうまい」「役になりきっている」という言葉が当てはまらないのは周知の通りである。

 今回の延々30分以上にわたる、「ヤス」と小夏のDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)のシーンは、SMAP「草なぎ剛」が忙しいスケジュールの間に長ゼリフを覚え、「ヤス」の気持ちになりきり、舞台で吐き出している、というものではなかった。私には「ヤス」の心からの声を「クサナギツヨシ」が心から吐いていた、というような気がしてならない。

 私は劇場で、目も耳も脳も心も全神経が「ヤス」に釘付けだった。とくに小夏とのシーンは体が硬直するほど陰惨だった。だが、妊婦小夏へイヤミ、罵詈雑言、暴力を浴びせる「ヤス」には、奥底から溢れ出る温かな光のようなものが感じられた。それは小夏と銀ちゃんへの想いの結晶でもあ
り、自分の人生への賛美でもあるのだろう。

 落ちるところまで落ち、行くところまで行きついて自分を見つけた「ヤス」の表情は穏やかだった。「キリストを体現している」と書かれていた人がいたが、劇場で階段落ちに向かう「ヤス」のほほ笑みを見てしまった時、私には「仏」に見えていた。どんなことでも何とかしてくれそうな慈悲深い「仏」…。文字通り後光が差し、「仏」はほほ笑みを浮かべ、階段落ちへと向かっていった。

 「クサナギツヨシ」のスゴさについて「天才」「天賦の才能」という言葉が度々とりざたされているが、私はパンフレットで石井啓夫氏が触れていた「本能的」という言葉がぴったりだと思う。
 彼の出ているレギュラー番組で、新曲のプロモビデオを撮るという回があった。テーマは「メンバーの素を撮る」。私が従来より思っていた「草なぎ剛」の「素」は、皆も触れている通り、

・ 番組のエンドトークや、コンサートのMCで、自分がまるで第三者の如く、しゃべらずにうんうんと聞いている「素人のような草なぎ剛」
・ ドラマの撮影合間に、動けない共演の女優さんの鼻の下に黒ガムテープを貼ってしまうような「子供のような草なぎ剛」
・ メンバーに急にフラれた時、うまいリアクションが取れなかったり、オチのないことをしてしまう「要領の悪い草なぎ剛」

こういったところだろうか。

 舞台を見て思ったことは、今回の「クサナギツヨシ」は「本能的」に「ヤス」になっていたとしたら、舞台の上の「クサナギツヨシ」はある意味「素」なのかもしれない。―本能的な舞台役者―こんな言葉があるかどうかはわからない。「本質的」と言ってもいいかもしれない。

 「本能」とは「動物が教えられたのではなく、生まれつき持っている性質・能力」のことだ。「ヤス」は本当に私達の目の前に実在していた。それだけ「クサナギツヨシ」の「ヤス」は本物だった。あの長ゼリフをよどみなく小夏にぶつけ、髪の毛先からつま先まで「ヤス」だった「クサナギツヨシ」は、あるがまま、彼自身の姿にも見えたのだ。何もかもをさらけ出してこちらへ歩み寄ってきている気がしてならなかった。

 「舞台の上のクサナギツヨシ」は「本能のまま」に「ヤス」を演じていた。それゆえ「舞台の上のクサナギツヨシ」も「素」なのではないか。矛盾しているようだが、私にはそう思えるのだ。

 最後になったが、彼は自分の著書の中でこう述べている。

―いつも自分の中で"オレは天才だ"と"オレはやっぱりダメだ"が格闘してるんだよ。感情が行ったり来たりなの。歌や踊りやお芝居をやっている時もそう。感情が行ったり来たり。でもそれでいいと思うんだよねー。
 何が一番いいとか、これが答えだーっていうのはどれにおいてもなかなか見つからないから、一瞬でもこれは自分に向いているよーっていう瞬間、大切にしたいなぁ。―              

 彼は「行ったり来たり」が一番居心地がいいんだろう。もしかすると今、「クサナギツヨシ」は"オレって舞台に向いている""オレって天才"と思いながら「蒲田」をやっているのではないか。そして何が自分に向いているか、自分の何がかっこいいのか、自分の何を生かせるか、もしかしたら彼は全部わかっているのかもしれない。

 私はそういう意味なら「彼は天才かもしれない」と思った。そして、とんでもなくスゴイ役者でもあり、最高にキュートな男のコでもあり、何をしでかすかわからないコワイヤツでもあり、めちゃめちゃにかっこいい男でもある。

 だから「クサナギツヨシ」は私達を惹きつけるのだ。

 

 

<参考資料>
「新明解国語辞典」三省堂   
「これが僕です。」ワニブックス

 

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