「その優れたフィルター機能」

 松本有紀

 

 

「俺、なんだって飲み込んでるじゃない。…飲み込みのヤスだもん。何が不服なんだろうね、こんなあたしに何が不服なんだろう。ちょっと電話して聞いてくんない?」

 

 クサナギツヨシは、今や日本中の誰もが知るアイドルグループ、「SMAP」の一員である。しかしその、いわば「芸能界最強のグループ」の中にあって、クサナギだけは、その個性についてあまり多くを語られることがなかった。クサナギについて語られる時にしばしば使われる言葉、「いいひと」「癒しの存在」…それはクサナギ自身の個性を語るものでは決してなく、媒体を通じての「その雰囲気から得られるイメージ」に過ぎない。そしてそれは、強力な個性を持つ他の4人のメンバーと比較して、「地味」だとの印象は免れない。

 そんなクサナギが、東京で、大阪で、あまりにも多くの人の度肝を抜き、涙を誘い、割れるような拍手を浴びた。クサナギは、その時、彼自身の強力な個性のひかりを放っていたのである。

 クサナギツヨシが「蒲田行進曲」で見せた強力な個性のひかり、それは他者を圧倒するような特別な顔だちでも、演技力でもない。

 クサナギの演技は、千秋楽の挨拶で共演の錦織一清が評したように、「特殊」であった。厳しい演出で知られるつかこうへいをして、「好きなようにやっていい」と言わしめたその演技は、時には脚本から感じられる範囲を越え、解釈を越え、おそらく常識を越えていた。

 「ラグビー部のキャプテン」「小夏の父・母」を表現する時のヤスの不可思議な動き、東京公演では初日初演からすでに枯れていた声、決して良いとはいえない滑舌。

 しかしそんなヤスでありながら、クサナギのヤスは決して、「クサナギだけが理解できるヤス」ではなかった。

 圧巻としか表現しようのない舞台後半。クサナギツヨシはその全身を使って、すさまじいスピードで、「彼自身の今までの経験を通して感じてきたこと」を、セリフにのせて観客の前に叩き付けていた。

 彼はあるラジオ番組にゲスト出演した際に、こう述べている。

「もともと台本とかはあるんですけど、まったく関係ないことを、(つかが)口だてで僕にあててきたりとか。そうすると、なんか全然ストーリーとは関係ないことを言われたりすると、自分の中で持っている潜在的な、今まで生きてきたコンプレックスとか、フラストレーションみたいな所に触られる瞬間があるんですよ。なんか腹立ったとか、すごく優しくなれるとか」

 ヤスは小夏を殴り、蹴る。つばを吐きかけ、そしてまた蹴る。くるくると表情を変えながら、自分の中からあふれだして止まらない、小夏への、銀ちゃんへの愛と嫉妬、感謝と怒り、あらゆる相反する感情を、次から次へと小夏にぶつけてゆく。

 そんなヤスは、次第に観客全体の心を波のように揺り動かしはじめる。観客は、ヤスの心に、ヤスの思いに、自分の心が重なっていく不思議さを感じはじめる。

 クサナギが自分の人生を通して感じてきた悲しみ、喜び、屈辱、誇りは、つかの作った力強いセリフに乗って、次第に観客がそれぞれの人生で持つ、悲しみ、喜び、屈辱、怒りと同化していったのである。クサナギのヤスは、いつしか自分の思いだけではなく、人のずっとずっと奥の方にある、あらゆる人が経験したことのあるすべての感情を、舞台の上で表現していったのである。

 クサナギの個性とは、おそろしいほどの透過性を持つ「フィルター機能」なのである。「全ての人が心を持って生きていること」を、彼の肉体を、精神を使って表現しうる力なのである。

 人の悲しみはただ悲しみだけなのではない。喜びも、怒りも、たとえ表面には一つの感情しか表出されなくても、人の心の奥底では、いろいろな感情が複雑にからみあい、そしてそれは刻々と湧き上がってくるものである。クサナギツヨシは、それを、舞台の上で見事なまでに具体化した。

 クサナギはヤスと観客の間にいて、自らがフィルターとなって、観客とヤスを、まっすぐな線でつないでゆく。観客はその時舞台の上に、クサナギではなく、ヤスを見る。そしてそのヤスの姿の中に、今度は自分の姿を見つけていく。激しいスピードで繰り返される、ヤスと観客の、心情の交換。

 

 「僕ってかなり適当なヤツだからね。仕事に関しても、わりと人の言うことをすぐ受け入れるの。自分から積極的に何かをやると僕は失敗しちゃうことが多い。誰かに言われたことをやってるほうが、成功率が高いんですよ」(「MORE」 1999年11月号)

 クサナギがなにかを受け入れて、飲み込み、ふたたびそれをわたしたちにまっすぐ返す時、役者・クサナギツヨシの奇跡が生まれる。

 

 

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