「名は体を表す」

びすこ

 

2000年版『蒲田行進曲』。あれからまだまだ成長していた。おそらく毎日観にいけたとしたら、毎日驚かせられるんだろう。舞台にいるヤスがコワイ。小夏役の小西真奈美さんと銀ちゃん役の錦織一清さんがいるから成り立つ芝居なんだけども、キーパーソンはヤス演じるクサナギだ。この3人の緊張感がピンと張り詰めてて、ハサミで切ったら音をたてて崩れるどころか大噴火するんではないだろうかと思えるくらい驚いた。

クサナギツヨシの「なぎ」の字はNet上では使わないのが暗黙のルールになっている。「なぎ」という字が全PC共通しているわけではないからだ。『名は体をあらわす』というが、クサナギツヨシは「なぎ」の字ごとく、時と場合によって、見えたり消えたりする存在なのかもしれない。

もともとクサナギツヨシは、「ただいるだけでいい」と思える存在である。クサナギツヨシにそれ以上も以下も求めない。そこにいるだけで十分なりたつ、空気がかんじられる。バラエティやドラマではやわらげられ助けられることが多いが、『蒲田』という舞台では、クサナギツヨシが動き、もたらす空気にまどわされ翻弄する。

「“あんたドラマでいいせりふばっか言ってんじゃないわよ”とかさ(笑)・・・あれ、ショックだったよなー。俺、なーんのために一生懸命ドラマやったんだろうって思ちゃった(笑)。俺が考えて言ってんじゃねーよ、台本にあるんだからしょうがないじゃん!って(笑)」(ぴあ1999年3月1日号より)



クサナギは最初で最後の連ドラ主役といわれたドラマでついたイメージが、数年たったいまでもたもちつづけてしまうほどの作品がある。その前後くらいの時期にあった『沙粧妙子』や『AC広告機構のCM』はまるで正反対の役柄だったのに『いいひと。』の印象が強い。クサナギは悪にも善にもなる普通の人であるのだが・・・。  

「パズルのように自分の気持ちを役に合わせていくのが我々の仕事」(日経新聞夕刊「ほっとトーク」2000年1月20日:役所広司)


クサナギの声は武器になっている。しなやかにときには凶器にもなってしまう強い声。その声をもってしたらどんなうまい役者もひるんでしまうような。もって生まれた才能だと思う。クサナギの発する音とリズムの結晶である声は、ひとを納得させる力がもともとそなわっているかのように、まんまとその罠にはまって聞き入ってる気がする。よく緑の中にいたり好きな音楽を聞いたりするとアルファー波が出るというが、まるでそんなかんじだ。一種のテレパシーがその声に宿り、私たち観るものを芝居の世界へと導いていくようだ。人間の情報収集器官である耳は、飛び込んでくるいろんな音を聞き分け楽しんだり、ときにはキケンを知らせてくれたりする。そんな耳にクサナギの声は印象を強く残していく。聞き惚れるというのとはまた別の、いつのまにか耳に溶け込んで、いつまでもこころに残ることばにしてくれる。  

「僕が進行上のなにかについて、しゃべったとするじゃないですか。でも、相方は、流れを知らないから、いきなり割るり込んで自分が話し出したりするんですよ。でも、それって、絶対にこの仕事ではプラスやと思うんです。台本を知らんぶん、僕を邪魔するぶん、そこを笑いにできるから。」(ぴあ1999年8月30日号:矢部浩之)



“笑い”に関して、クサナギはいつまでたっても角で立って笑っているだけの一視聴者であることが多い。その場の空気の先を読んでアドリブでつくる“笑い”にクサナギのテンポが微妙に?ズレているからだ。そんなところに『おぬし(SMAP×SMAPショートコント)』という、くしくも声を武器にしたコントができた。偶然の産物とはいえ、声というクサナギ最大の特性を発揮できた傑作になるかもしれない。 

「演技に関しては、“素直でいる”ことを大切にしてる。」(ぴあ1999年8月30日号より)



『蒲田行進曲』という台本からうけた印象を素直に演じたらあのヤスになるらしい。小夏をののしってののしってののしって蹴りまくって蹴りまくって叩きまくって苦しいのは小夏だけじゃなくってヤスも苦しい。そしてそこにはいない銀ちゃんさえ苦しいような気がする。なんでもかんでも背負ってしまってまで、小夏から逆に責められるのが嬉しい、喜びになっている。マゾかと思うくらい。極限までやらないとものごとが進まないのか、愛がわからないのか、自分がヤスなのかクサナギなのかわからなくなるほど狂い出している。とくに後半はクサナギツヨシの生きざまを投影してるかのように見える。見せてくれる。 

「・・・・あんまりね、この人はどういう人なんだろうとか、人間自体を深く考えたりはしないです。僕は。それより、相手がこう言ったら、こいつはこういうふうに言うんだー、って感じ」(ぴあ1999年3月1日号より)  



銀四郎と小夏の間にできた子を自分の子として育てるということで起きる感情の波をマコトを通してあらわすことは、観る人によっては唐突に出てきた真犯人のようにかんじてしまったりする。だが、オモテ(セリフ)に見える関係だけが現実でない、ということをこのマコトを通して語っているのではないだろうか。どこでそのスイッチが押されるのかわからないが、ヤスがマコトになり、マコトがクサナギになり、クサナギがヤスに戻る・・・ときがある。ヤスがマコトを語っているつもりが、クサナギがヤスを演じてるのと同じように、ヤスもマコトを演じているかのようにも見えるのだ。感情のもつれた熱だけがうかびあがることで、唐突にあらわれた真犯人ではなく、存在してほしい“戦士”に見えてくるのだろう。こうしてヤスと小夏の関係は、小夏と銀四郎の関係と銀四郎とヤスの関係、さらにはヤスとクサナギの関係にまで歪みあい、複雑になればなるほど愛しいものになっていくのかもしれない。そして階段落ちに向かうとき、「トゥナイヤイヤ・・・」「ティア」。絶妙なタイミングで胸をさらに苦しませる。「泣いてくれ」といってるわけじゃないのに泣けてくる。ヤスの、クサナギの“魔性のリズム”にまんまとはまっているからだろう。

ラストシーン、監督の声でゾンビのようにぬっと手が伸びてくると安心する。今日も大丈夫だったっと。実際でんぐり返しで死なないのはわかっているのだが、くねりぐねりとあの大階段を落ちてきてるとかんじられる。あれも彼の中のリズムが体得した落ちかたなのかもしれない。  

客を騙してなんぼの世界で、これほどまでに騙してくれる役者はそうそういない。クサナギの声が心の痛みや悩みをあらわしたり消してくれたりするたび、そう思う。


----おまけ----------
●弓剪●(なぎ)
弓=矢をとばす武器
剪=切る、除く

 

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