『スタアの恋』全回を見終わって
〜気づかぬうちにかかった魔法〜

川本 千尋



 最初にお断りしておきます。

 『スタアの恋』、あるいはクサナギツヨシが大好きで、少しでもけなす言葉を聞きたくない、という方は、どうかお読みにならないでください。また、今までは役者名と役名の混同はできる限り避けましたが、今回はごちゃごちゃになります。役を語りたいのか役者を語りたいのか、要するに役と役者にかけはなれてしまっている部分があって、そうなってしまいました。

 それから、長いです。異常に長い。『じんべえ』『フードファイト』『スタアの恋』について語ります。とにかく、手前勝手に書くのです。いま書かねばわたしは、今現在抱えている仕事も私生活も何も手につかないから書くのです。かつて他の番組の感想等で自分が書いた文章の引用も加筆訂正省略しつつたくさん入ります。なんの脈略があるんだ、と、怒ったあなたは正しい。今ここで読むのをおやめになることを祈ります。

 いま、とても『椿姫』について書きたいのです。書きたいことがあるのです。
 でもその前にこれを書かねばなりません。わたしはこれを書かねば『椿姫』を語れないのです。
 それは、異なったべつべつの話なのですが。


 いつかどこかで、もしやクサナギツヨシは何かの魔法にかかったのでは……と、いま少し風邪気味で熱のある頭で思っています。これは熱のせいでしょうか。そうであってほしいのです。その魔法は『フードファイト』の途中で「もしかしたら」と感じました。『スタアの恋』でほぼ確信となりました。

 1998年秋『じんべえ』というドラマにクサナギツヨシが出演しました。原作・あだち充、主演・田村正和、共演・松たか子。クサナギツヨシは田村演じる海洋学者を尊敬する京都大学大学院生。尊敬のあまり勝手に押し掛け同居してしまいます。いいやつです。絵に描いたような、そう、『いいひと』『成田離婚』以前のような、絵に描いたようにいいやつです。
 田村正和と松たか子は父子。ただし死んだ奥さんの連れ子なので、血のつながりはない。奥さんが亡くなって十何年、ふたりきりでひっそりと暮らしてきたその家に居候として転がり込んできた青年・寺西くんがクサナギツヨシ。寺西は娘に一目惚れ。徹底的にアタックを繰り返す中で、彼女が実は父親を愛していることに気づき、衝撃を受けます。
 いくらなさぬ仲とは言え、十数年、父と娘としてひとつ屋根の下で暮らした男と女が恋に落ちる。普通なら気持ち悪くて見ていられません。しかしあだち充の原作は、そのあたりを非常にうまく描いていました。さてドラマではどうなるだろう、と興味津々で楽しみに毎週見ておりました。
 始まってみると、やはり、生身の田村正和という現役の二枚目とイキイキと演技する松たか子を見ていると、10話以上にひっぱるのは難しい気配でいっぱいでした。
 寺西くんは、最初二人の恋心にまったく気づかず、一目惚れした娘にアタックを繰り返します。話が半ばまで進んでようやくその事実に気づいたあとは、父と子なのに好きになるなんておかしい、と責めてみたり、自分はどんなに彼女を思っているかについて周りを巻き込んでの大騒ぎを起こしたり、話を転がしてゆく役でした。
 当時、テレビ誌のインタビューにクサナギツヨシはこんなふうに答えていました。記憶頼みですみません。

「僕ならすぐ二人がお互いに好きなんだ、ということに気づく。
 だからあんなに未来(松たか子)さんのことを追いかける
 寺西くんのようなことはしない」

 アニメの実写化にはただでさえ困難が伴うのが普通ですが、テーマがテーマだけに、これはさらに難しいドラマになってしまったなあ、と、クサナギファンとしてではなく、毎週客観的に眺めていました。
 最終回目前のテレビ雑誌に、最終回はこれが見所!のような特集があって『じんべえ』のプロデューサーがこんなことを書いていました。これも記憶ですみません。

「(主役二人の恋の行方はもちろん)草なぎくんの寺西くんが
 号泣するシーンは見所ですのでぜひお見逃しなく」

 ……わたしはコンビニでこの記事を立ち読みしてしばらく固まりました。
 どこをどう持っていけば、寺西は号泣するのであろうか。もう娘に脈がないことは視聴者にも寺西にも他の出演者にもとっくの昔にわかっていて、絶対に「号泣」というシーンは流れ上あり得ないはずなのです。
 放送を見ました。「号泣シーン」がありました。10話までの流れ自体が無理だった上に、まだあんた気があったのか、あの子に、と、それはどんなに好意的に考えても、そうとれるお話ではありませんでした。だから泣くわけはないのです。この寺西くんという人が、号泣するわけはないのです。でも、夜の公園で、もうどうしようもないほどへたくそに号泣していました。涙はほとんど出ていなかった。

 『いいひと。』『成田離婚』でファンになったわたしは、このとき、またクサナギツヨシが好きになりました。これでいい。だってこんな話の流れで、寺西が泣けるはずがない。泣けてはいけない。番組上は一所懸命、しかしテレビ誌で年がら年中寺西への不満を漏らしていた彼のへたくそな「号泣」に、わたしは大満足でした。これでいいんだ、これでいいんだ、と。


 2000年夏。『フードファイト』が始まりました。いやあこれはもう、当時はよくぞまあここまで、と我ながら呆れるほど書きましたねー、これについて。悪口ばっかり(笑)。でも、4話から突然変わったクサナギツヨシに、本当に驚きました。



『フードファイト』第4話自分の感想より

 ふっきれましたね、もしかして。
 先日流れた番宣番組でクサナギツヨシは、
 
 「野島さんの脚本に負けないよう頑張ります」
 
 と言っていましたが、それは「もう真剣に悩むのやめた!」という意味だったのかもなあ、と今回見て思いました。“山崎さん”ではなく、“野島さん”の脚本に負けない(笑)! いいぞ、クサナギツヨシ! その心意気です!
 野島企画の大食いドラマ、には不安はなく、かえって楽しみでした。しかし、クサナギツヨシ自身はどうなんだろう。6月(放送開始前収録の頃)に入ってからでしょうか、テレビで見かける表情、正直言って、わたしにとってはいやな顔が多かった。それが一番、心配でした。いいともを見ても、何を見ても。心配性で思いっきり勘の鋭い友人からも「見た? 嫌いなタイプの顔になってるんだけど……」と電話がかかってくるし。

 そして、今週のいいともでは、実にさわやかないい顔でした。
 ふっきれたな、クサナギツヨシ(笑)!




 ふっきれた、というのはあくまでわたしの想像ですが、すべては視聴者を楽しませるために。他の誰のためでもなく、自分の満足や名誉のためですらなく、見てくれる人たちに楽しんでもらうためにやる仕事なんだから、それで大正解なんじゃないの、クサナギツヨシ、と、テレビに向かってつぶやきました。そして4話以降の『フードファイト』を広い心で楽しみました(笑)。だってビジュアルがぐんぐんよくなっていったし。いやー、ビジュアルについて語れば『フードファイト』の右に出るドラマはないんじゃないだろうか? 2001年秋の深夜特急がどうのこうのというスペシャルなんか、まあどうしましょう、ってほどいい男でございました(笑)。


 あまりのバカバカしさにゲラゲラ笑いながら楽しんで9話まで。しかし最終回直前の第10話。わたしは再び、いや、今までとはまったく違う不安に駆られました。



『フードファイト』第10話自分の感想より

わたしも、泣きながら食べ続ける満に、道化師のソネットをかすれ声で口ずさむ満に、泣かされました。さだまさしのインチキ占い師が素晴らしい味を出していました。

でも、脚本、わかんなかった。
松本が細かく書いてくれていますが、「僕の観念にない感情」ではなく、誰の観念の中にもない感情。1話から積み重ねてきた……積み重ねていないとも言えるが……とにかくこのシナリオでここに至って、この感情に結実するわけがない。のに、満は麻奈美を失うことが悲しかった。生涯で一番の悲しみだった。それがちゃんと伝わってきた。見る人も泣かせてしまった。

こんなことしちゃって、いいんでしょうか? ドラマとは、物語とは、創作に感動する心とは。そういうことでいいんでしょうか?

古今東西、優秀な創作物はだまされる感動も与えてくれますが、微妙に意味が違うんだなあ。「それだけにはだまされてはいけない」という部分がある。




 『じんべえ』のとき、わからないからできなかったはずの表現が、できてしまったのです。本の読み込み方や洞察力、想像力、観察力、すべての面で彼が役者として成長したから、とも言えるでしょう。なにより、テクニック。「本来、そうなるはずのない感情を、こうもっていく」テクニック。しかもそれが恐ろしいことに、役者当人の感情だけではなく「見ている人の感情も、こうもっていく」テクニック。泣かせる、感動させる、テクニック。

 もしや、彼にそのテクニックがついてしまったのか?と、愕然としました。

 『いいひと。』『成田離婚』はとてもよい本でした。いいひとはどこにもいない人だけど、周りの人がとてもよく描けていて、そこに素直に乗ったクサナギツヨシは素晴らしかった。成田離婚はすべての人間がイキイキと生きていた。そこで、クサナギツヨシは本当に素直に、当時まだまだ少なかった「芝居心貯金」を全部使い果たして、使った分が何十倍にもなって返ってきて、いやあ、あの頃はまるで芝居心バブルでした(笑)。最高のバブル期はもちろん『蒲田行進曲』。なんの狙いもてらいもなく、まっすぐ芝居につっこんでいって、つかこうへいから、共演者から、スタッフから、そして客席から、何千、何万倍もの芝居心利息を得ました。


 わたしは、テクニックがいらないなんて思いません。必要です。でもそれを、あり得ない感情の流れの中で使う、というのはどうなのだろう、と思うのです。


 ようやく話は『スタアの恋』にたどりつきます。一話から三話まで、もう本当にいいお話でした。夢物語のような、なのにとても地に足の着いた、人がちゃんと生きているお話でした。それが四話からどうしてああも崩れていったのか。

 とくにわたしは、筧利夫について語りたい。できれば泊まり込みで3日ぐらい語りたい。
 あの番組に、筧利夫の存在する意義があったのか?
 小劇場系三人組、という売り物でセットにされた、筧利夫、勝村政信、古田新太。最初の三話は主役のお話だから、サブの人たちは背景程度のご紹介、というのはまだわかる。しかし、4話でいきなり「勝村の所長が仕事で失敗をしでかし、部下の筧、古田がそれをなんとかしようとクサナギの恋を利用する」。しかも勝村の離婚と置いてきた子供との関係、なんてのがいきなり登場。でまた、それっきり。
 しかし、勝村はまだいい。「主役の冴えないサラリーマンの上司」というスタンスが少なくとも存在するから。そして古田もいい。後半になってからなのはまずいけれど、とりあえず「主役の恋敵」というスタンスが少なくとも存在するから。
 筧利夫はどうした。スタッフに聞きたい。問いただしたい。筧利夫をなんだと思っているんだ。
 8話で突然、家庭がどうしようもなくボロボロであることが描かれ、いきなり「人間」になった筧の次屋。それまでずーっと、彼だけは単なる「背景」のままだったのです。変な行動や変な言葉をたまに言って見せる、背景だったのです。あんまりじゃありませんか? 必要だったのですか、次屋という役は?

 わたしは好きなドラマが始まると、テレビ誌を事前に読んで楽しみにするタイプです。ですから『スタアの恋』の人物紹介が載ったときは小躍りしました。大好きな三人の役者が全部「草介をいじめる」設定だなんて! 『成田離婚』再びだわ! しかも、三人、とりわけ筧と勝村の役には細かい関係性が設定されていて、本当は筧が先輩なのに出世は勝村が早くて所長になってしまった、だから微妙な空気がある、という。いいですねえ。人間味あふれて。
 しかしそれが活かされた場面がいくつあったでしょう? 「次屋……さん」と呼ぶシーンが一回あったな。部下として、しかし年長者だし……と、。それもそのワンシーン単独だけのこと。この二人の関係が「おはなし」になにも役立たなかった。返って邪魔だったかもしれない。
 そもそも。
 勝村は離婚した。筧も離婚寸前。どちらも結婚によいイメージを持たない二人の違いはいずこに? テレビ誌では勝村は「生身の女に絶望して今は芸能と二次元オタク」という設定でした。ならば、藤原紀香演ずるヒカル子に夢中にはなるが、けっしてストーカーにはならないタイプのはずで、たとえば目の前に実物のヒカル子がいても思わず手の中のヒカル子の写真に話しかけてしまうとか、どこかそういう、極端な人物設定はできなかったのでしょうか。
 生身の女なのに、生身の女としての魅力を感じない。でも熱狂的ファン。勝村が前半そういう人だったら、後半、ヒカル子に「生身の女性として」の魅力を見出し、草介の恋を応援する側に立ってゆく、その姿にメリハリがついたはずです。

 古田について「え?」と思ったのは第五話。四話は全員が変だぞ、おかしいぞ、と思ったけれど、第五話、リストラの話で、営業所でもっとも成績が悪いのは古田。だからやめさせられる。
 ……え? 草介より古田の方が成績悪いの?
 いや、それでもいいんですが、じゃあ草介ってのはそれを、仮にも、とりあえずでも、止めないやつなのか? 自分がやめると言い出すようなタイプじゃないのか? 草介って「一番だめなやつ」または「一番いいやつ」じゃなかったのか? 『成田離婚』の一朗くんは、職場で一番冴えない、ダメな、だけど愛すべき奴。だからこそ「主役と周りの他のひとたちとの違い」がちゃんと出ていました。じゃあ、サンマルコハムにおける草介は、いったいどこにスタンスがあるのか? ただ「よくいる人」なのか??? だからどこにもいないんだって、「よくいる人」なんて!

 しかし、それでもまだ、勝村と古田はいい。「主役の上司」と「主役の恋敵」という立場があるから。


 筧利夫。古い舞台は知らない。でも最後の飛龍伝は知っている。大事な親友から預かった女を同居させて、自分はケダモノだし、犯してはいけないから自分を冷蔵庫にくくりつけて、でも冷蔵庫ごと動いてしまう、それを必死にあやまる男。なんて愛しい、なんてかわいい、なんてイキイキとした、男。
 その筧利夫に、なにも立場のない役をよくも与えてくれたもんだ、と、ファンとして非常に不服です。思えば筧は『フードファイト』でも似たような目に遭っている。


『フードファイト』第9話自分の感想より

折り返しの頃の雑誌インタビューで、「9話で大活躍する。歩がいきなり王手、みたいな(笑)」というようなことを話していた筧利夫。歩がいきなり王手。まさにその通りの展開。ほとんどまったく語られることもにおわされることもなかった如月鋭一という人物の背景を、たった一話で全部見せる。「こんなやつぁいねえよ!」と言おうとしても迫力に負けて言えない大活躍はもう、さすがとしか言いようがありません。


 フードファイトだから、よかったのです。フードファイトだから、それが許された。マッドサイエンティスト系アヤシイ医者、という役だけでもよかったのだから。でも『スタアの恋』は、最初、あんなによいドラマだったのです。ちゃんとしたドラマだったのです。人間がきちんと描かれるはずの、ドラマだったのです。そのドラマの中で、筧利夫を「おもしろい背景か小道具」としてしか扱わなかったスタッフに、わたしは怒る。

 森本レオ演じる金田中監督。最初はくせものっぽくて楽しみだったのに、結果、あの監督の作った椅子がどうのこうのいう話、あの映画、みなさん、見たいですか? 見たいですか? わたしは全然見たくない! そんなことでいいのか! ドラマ11話をひっぱっていくはずだった「椅子」の映画が、ちっとも魅力のない映画でいいのか?

 映画と言えば6話の監督も、9話の舞台演出家もすごかった。いねえだろ、あんな人間。どこ探したって。それこそどっかの小劇場とか学生映画サークルとか小説同好会からトウがたっちゃった奴が、結局サラリーマンになっても映画や演劇から離れられず、昔の夢とわけのわからない理屈と売れてしまった過去の仲間への嫉妬と怒りから頭がおかしくなっちゃった奴でしょう、あれじゃ。いや、そんな奴の方がまだ、人間としてあり得る。あり得る。人間だ。6話の監督と9話の演出家は、どういう「心」があるのかまったくわからない。

 ああ、こんな話はいくらでも続けられる。できれば一週間は泊まり込んで話したい。


 どこまでいけば『スタアの恋』のクサナギツヨシにたどりつけるんだろう。


 そういう、まったく「心」がわからない人たちがおはなしを運んでゆくドラマの中で、クサナギツヨシの中田草介は、周りがぐらぐらだし、主役もぐらぐらだし、「心」がどう動いていくのかわからない回が何度もあって、でも合間にとてもよい芝居を見せて、そう、藤原紀香のヒカル子と二人のシーンは、いつもよかった。好きなんだこのふたり。とっても好きなんだ、なのに運命って意地悪ね、と、楽しませてもらえるはずだったのに、草介もヒカル子も「心」の動きがまるでUFOの軌道のようにめちゃめちゃ。ときどきジグザグどころか、今まで関係なかったところにワープしたりするほど。

 つまり、そういう、人を描かない、描かれない、心が描かれないドラマの中で「それなりのことをした」。今回、わたしの結論はそこに行き着きます。仕事だから、人を楽しませる仕事だから、『フードファイト』と同じようになんとかしようとがんばったであろうことは容易に想像がつきます。でも、あそこでどうして泣けるんだ草介、あそこでどうして茫然自失できるんだ草介、そこで、見事に泣いて茫然自失を演じてしまったクサナギツヨシ。


 わたしはこれからも、よい本とよい演出にめぐりあったとき、クサナギツヨシが素晴らしい芝居を見せてくれることを確信しています。しかしそれの五分の一ぐらい、よい本でもよい演出でもないのに、「それなりに素晴らしい芝居に見える芝居」を見せてしまうのではないか、という危惧も、『スタアの恋』を見終わってもちました。

 とてもとても微妙な話です。テクニックは必要。育たなくてはいけない。プロだから、そのときの条件内で最高の仕事をすべきなのも当然。でも、失ってはいけないものを失う恐れはないのか。そんな魔法を、いつかはわからない、でも、どこかでかけられなかったか。『いいひと。』『成田離婚』『先生知らないの?』『メッセンジャー』『チーム』で着々と育ち、なにより『蒲田行進曲』の舞台の上で間違いなく燦然と輝いていた「うそのない芝居心」を。


 念のため書き添えますが、けっして『椿姫』が「よい本でもよい演出でもない」ものだった、というわけではありません。それはまた別の話。でも、スタアの恋について語ってからでないと、語れない話。


 ヒカル子と草介の永遠のキス。嬉しかったです。ヒカル子と草介は、とても好きだったから。1話で出会い、2話で壊れ、3話で無理矢理復活した偽物の、でも本当は、真実の恋。それが結実したから。
 いつかスペシャルでもあったらいいなあ、とは思います。主役二人がめでたく結ばれれば、筧・勝村・古田の三人は人物の背景がどうのこうのなんて考えずに、おじゃま虫の団体として素直に楽しめるし。

 第一話の感想でわたしは、映画のように2時間、3時間ではなく、11時間のラブコメディとして楽しめるのが嬉しい、書きました。終わってみれば、1、2、3、7、最終回(一部カット)だけでよかったな。そうだな。そういうバージョン、作っちゃおうかな、頭の中で。←病気ですね完全に。
 
 


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