「スタアの恋」終了直前
〜〜草介との別れに寄せて〜〜


naomi


クサナギツヨシの魅力に気づいたのが遅かった私は、今回の「スタアの恋」で始めて、クサナギの演技を毎週楽しみに待つ体験をしました。
草介がだんだん出来上がって行く過程を、しみじみ眺められました。
思い返しただけでも、気持ちが高ぶってきます。
思えば私、連ドラ全部レンタルビデオ以外で見たのって始めてじゃないかしら。
クサナギ以外のドラマの要素にいらいらしながらも、本当に楽しい3カ月でした。

「スタアの恋」は終わってしまいます。
去年からずっとずっと、クサナギツヨシのお芝居を私は待っていました。
クサナギツヨシが普通の人を演じるのが一番見たかったんです。
できれば、恋する男を演じて欲しかったんです。
恋する気持ちに形はありません。自分の経験を通して演じるしかありません。
クサナギの心のうちを役柄に当てて、吐き出されるのを見たかったんです。
どこまで、どういう形で自分の心を吐露するのか、見たかったのです。
幸せにもその願いは叶いました。
クサナギは、言葉で、動作で、背中で、表情で、恋の演技を見せてくれました。
失礼な話ですが「本気の恋愛ってしたことがないんじゃないか」って思わせさえしたクサナギツヨシ。(だって、ねえ、バラエティでの様子を見てると、なんとなくですが)
とんでもないや。ちゃんと知ってるんじゃない。
恋の激情も、恍惚も、苦しみも、どうしようもないいらだちも、そして楽しさも喜びも、草介の姿を借りて見せてくれました。
そんなものを見せてもらって、ますますもっとクサナギのお芝居を見たくなりました。
生で、見たくなりました。

オフィシャルサイトの藤原紀香インタビューにあったクサナギの言葉、
「僕はヒカル子さんがきれいに見えればそれでいいんです」。
その言葉の意味を私が理解するのには、少々時間がかかりました。
ヒカル子が輝くように、自分の輝きは極力押さえて、ヒカル子をうっとりみつめ、ヒカル子と呼吸を合わせて、2ショットのアングルに気 を使い、その中で、クサナギは草介の感情を少しずつ形成していったのでしょうか。
さらにほかの役者さんとの絡みの中でも、計算された技巧を使って、草介のキャラクターは形成されていったように思います。
今まで、そこまでの計算がクサナギの演技になされていたとを、感じたことはありませんでした。
もっと、体当たり的で直感的な演技が、クサナギの魅力のように思っていました。

今回の「スタアの恋」は、チョナン・カンでありつづけ、満を演じ、ライブでアイドルとして歌い踊り、さらにバラエティ番組のレギュラーを抱える多忙な中で、さらに新たなキャラクターに挑戦という形で始まったと思われます。
時間的な制約は、私なんかの想像以上だったようで、「痩せていく」という証言が共演者からも聞こえました。(「笑っていいとも」出演時の古田新太さん)
そんな中で、クサナギは、深く心を演じました。
今まで私は、ここまでクサナギが心に秘めたものを演じたのを見たことがありません。
忙しければ忙しいなりに、演じるときの障害があればあるほど、クサナギは熱くなる。
さらに、計算により制限された草介の動きに、自分の経験に基づいた感情を当てることで、命を吹き込んでいく。
電球のフィラメントの仕組みを思い出しました。フィラメントが細いほど光は強い。
クサナギの演技は、困難な条件なときほど、光り輝くのかもしれない。

クサナギツヨシは、のほほんとしたイメージで語られることがいまだ多いようです。
SMAP5人ないし4人で出演しているときは特に、控えめで発言も少なく、癒し系だとか、自然体だとか、そんな言葉が似合うのは確かなのかもしれません。
けれども私は、クサナギの中にどうしても熱いものを見てしまうのです。
今回の演技にも、これほどたくさんの制約の中ですら、クサナギ自身は何の妥協も自らに許していないことでしょう。

彼のキスシーン拒否発言があるそうですが、
・・・キスを演じることで、計算以外の胸のうちが、共演者にも観客にも伝わるかもしれない恐ろしさのようなものを、本能的に感じるせいか?という気がしないわけでもないのですが、そして、私は昨今珍しいその鋭い感受性に、驚いてしまうのですが。
今回はそれを克服したように思います。
1話にキスシーンがありましたが、むしろそれ以上の露出が、ほかのシーンであったように感じています。
最終回でもっと別の形のキスシーンが要求されても、今のクサナギにおそらく拒否はないでしょう。(私の願望でもありますが)

すべてを出し切って、キャラクターを表現することを選んだ彼の演技は、その表現に気取りはなく、時に露骨で、むきつけで、ひたむきで、かつ人一倍強い。
見ているこちらの感情が、その感情の大きさに思わず「共鳴」してしまうようです。
クサナギの演技で感じる大きな衝撃は、そのほとんどが「共鳴」だと思うのです。
観客自らの過去の感情が引きずり出される、それほどの大きな感情の放出がある。
それが舞台であるなら、劇場に出かけ「お芝居を見る」と心構えが出来ていることもあり、私としても、かなりの興奮や共鳴を覚えたことは多々あります。
でもそれが、家庭の日常を送るリビングで眺める「TVドラマ」で起こるということに、私は驚いてしまうのです。

そして、これが、生だったら、舞台だったら、どんなにエキサイティングですばらしい作品をを経験できるだろう、と思ってしまうのです。
なにせ舞台では、演じるクサナギツヨシの全身を見つづけていられるのですから。
(繰り返すようですが、私はあの「蒲田行進曲」を見てはおりません。悔しいです)


最終回が控えておりますが、あえて、最終回を見る前にこれを書きました。
最終回、もうしばらくはクサナギの演技を毎週見ることが出来ないと思うと、それだけで寂しくて、今以上に冷静さを欠いてしまうように思えるから。

私にとって、役者クサナギツヨシは麻薬です。
すでに中毒患者となった私は、さらに進化したクサナギツヨシの演技を熱望します。


「スタアの恋が語りたい!」インデックスへ
「クサナギツヨシを考える掲示板」へ

Topへ

運営者宛メールはこちらへ