『スタアの恋』第六話
第七話の夜に
〜だから七話を待っている〜

川本 千尋



 いつでもそうですが、念のため、これも川本一個人の考えです。
 
 1話が緻密にできていて、2話がいい感じにそれを引き継いで、3話のホテルのシーンでスタアとしがないサラリーマン、それぞれが惹かれながらうち消す切なさをたっぷり味わって、4話は小金井所長フィーチャー編は嬉しいけれど前半の説明台詞があまりにも多すぎて「?」、5話はテキパキ運ぶ鈴木雅之演出にのせられて軽快にドライブして「?」を取り戻す。
 ここまで「おもしろいから見て!」と友人知人に自信をもってすすめてきたけれど、6話で完全にストップしてしまいました。
 
 一々全部、腑に落ちない。
 
「少なくとも、3話を見た視聴者はスタアとサラリーマンが互いに惹かれあっていることを知っている」
「でも、当人同士は5話でそれを“違う世界の人だから惹かれているだけ”だと思っている」

 素敵じゃありませんか。かわいいじゃありませんか。
 で、自分の気持ちに正直になれない二人を、後半、どうやって近づけ、どうやって引き離すか。ここからが連続ドラマ腕の見せ所の6話で、納得いかない。
 そりゃないでしょう!
 
 「3話を見たら」「5話を見たら」という仕組み自体、かなり悔しい。5話までの大きな流れとして、二人が惹かれあい、その思いをうち消すのがこのドラマの芯である、と納得させなきゃいけないのに、どうもブツブツと何話ごとかに途切れているのが心配だな、と思っていた矢先の6話。
 
 麗子は「ヒカル子が草介を好きだ」と思っている。この思いこみは面白い。なのに、そう思った理由は「ブタさんのキーホルダーを大事にしていたから」。これ4話見てない人には全然わかりませんし、見ていても覚えているほど印象的なシーンでもなんでもない。「麗子が動物的な勘で真実を見抜いている」のが楽しいのに、ブタさんでオチかい! 6話で一度落としてもいいけど、キーホルダーかいっ!
 
 なぜか悩める二人の前にタイミング良く現れる金田中監督。彼の言葉が、6話全体の「納得」にならねばならないのに、台詞がながーい。長い上にありふれている。牛山にビールのたとえを延々と語るシーンも、とっくに視聴者は「だから好きなんだってば」と突っ込んでいる。予定調和なのはわかっているけど、だったら余計にもっともっとキレのいい言葉をぶつけてくれなければ困る。
 
 すべての台詞にキレを、と要求するわけではない。
 
「書けないときは書けないことを書く」「書けない(撮れない、矢を当てられない)自分を見つめる」のはいいけれど、この程度の御言葉、1話の中のワンシーンレベル。6話全体を背負う力はない。話全体を背負う言葉には、もっともっと厳しくあってほしいし、1話、3話を見た後は期待してよい制作陣だと信じたから悲しい。

 サンマルコハムのトリオ+つぼみちゃん。楽しいのは楽しいけれど、サブキャラクターがサブキャラクター同士でばかりからんでいると物足りない。主役とからんでほしい。あまりにサブキャラクターの世界が孤立していて、主役を囲む人たちとしての位置づけがぐらつく。
 
 濃いサブキャラクターは主役に対する位置づけがハッキリしてこそ生きてくる。はるか昔のシチュエーションコメディ『奥様は魔女』の主役サマンサは魔女であることを隠している。彼女が魔法を使うところを、毎週「たまたま見てしまう」お隣の奥さん。しかし、彼女がどんなに「あーた!サマンサは魔女なのよ!」と言っても旦那は信じない。サブキャラクターと主役の関係がくっきり際だっていた。サンマルコの人々にはそんなふうにからんでほしい。キャラクターとしての草介への反発も愛着も足りない。独立した世界だからと、あまりに演じる人に任せすぎなのもキャラクターに筋が通らない原因ではないかとすら思う。
 
 考え過ぎかもしれないが、クサナギツヨシ、藤原紀香、主役二人があまりに忙しいからシステマティックに作っているのかなあ。主役のいないシーンをサブキャラクターだけで組み立てれば効率がよい。それでもいい。それはいい。きちんとシナリオを組み立ててくれれば、別にシステマティックで全然かまわない。
 
 ごく自然にドラマの世界にはまり、どのキャラクターも愛しい、という流れにならないもどかしさ。クサナギツヨシが好きだし、そもそものお話に興味があるから一所懸命好意的に見てしまう、だから見続けているけれど、それがなかったらどうなるんだろう。
 
 だから7話を待っている。
 楽しみに待っている。
 きちんと「お話」を作ってください、と願いつつ。
 


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