『スタアの恋』第一話、第二話
〜ファンタージェンの渡し守〜

松本 有紀BR>


ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」というお話をご存じでしょうか。
小さいころ、ひょっとしたらみなさんも読んだかもしれない物語。
英語名「ネバーエンディング・ストーリー」のタイトルで、映画にもなっています。

わたしは、このお話が大好きで、映画も大好きでした。ただし映画は一作目だけだけど(爆)。

バスチアン・バルタザール・ブックスという少年がある日、不思議な色をした表紙のついている本に出会います。
学校の暗い物置の中で、バスチアンは夢中になってその本を読み始めます。
その本の中身は、もっともっと不思議な物語でした。

ファンタージェンという国があって、その国が、滅亡の危機に陥っていました。
原因不明の「虚無」が国を襲い、国土が次々と消えていくのです。
選ばれし少年勇者、アトレイユは、女王「おさなごころの君」の命を受け、ファンタージェンの危機を救うための旅にでかけます。
困難な旅の中で、アトレイユは、ファンタージェンを「虚無」の手から救い出すすべはたったひとつなのだと知ります。
それは、人間の国のこどもが、「おさなごころの君」に新しい名前をつけてくれること。
ファンタージェンは、人間の空想力、想像力が生み出した国。人間が自分の生活に疲れ、その想像力や空想力を失って、だからファンタージェンは「虚無」につつまれていたのです。

ファンタージェンを救えるのは、物語の世界を心から愛し、夢中になってくれる子どもだけ。そのあらんかぎりの空想力を使って、新しいファンタージェンを作ってくれる、ただ、そのことだけ。

それができるのは、今、この本を読んでいる君なんだよ。

「ぼく?ぼくのことなの?」

・・・バスチアンは、迷いに迷い、そして勇気をふりしぼって、「おさなごころの君」に新しい名前をつけます。その瞬間、たくさんのことがいちどきにおこりました。

人間の子、バスチアンの、ファンタージェンでの冒険がはじまります。

・・・ずいぶんながなが、「はてしない物語」のことをひっぱってしまいましたが、わたしは、今回の「スタアの恋」のクサナギツヨシ(中田草介、ではなくてクサナギツヨシね)を見ていて、この物語をなんとなく思い出していたのです。

ファンタジーと現実世界の間を行き来し、つないでくれる、渡し守。

「スタアの恋」は、とにかく、全面的にファンタジーです。あんなサラリーマン、現実世界にいない、あんな気のいい、ゆかいな先輩たちなんか現実世界にいるわけない。スターであるヒカルコさえ、今はもう、あんなスター、どこにもいません。今はもう、っていうか、わたしは、知りません。

でも、そのファンタジーの世界のいきものたちが、とんでもなく魅力的に「生きて」動いてる。その喜びも、その悲しみも、なぜかこころにしっとりとしみいってくる。いや、喜びとか悲しみとか、そんな大仰に表現するべきものだけでなく、ひとつひとつの動きが、どんな細かい動きも、生きて、動いているのが見える。

これは、わたしにとってまるで、テレビの世界に奇跡的にうまれたファンタージェンみたいなものです。人の想像力が作った新しい世界。

でも、その世界にわたしがこれだけ共感して、笑ったり涙したりできるのは、その世界が閉じてないから。きちんと、「見ているこっちがわ」の空想力や想像力の部分にまで、踏み込んできてくれているから。

もちろん、脚本、スタッフ、すべてすべて、すばらしいのだと思います。藤原さんをはじめとする役者さんたちも、ほんとにすばらしいんです。

でも、「見ているこっちがわ」と「あっちがわ」をつないでくれているのは、やっぱりクサナギツヨシじゃないかと、わたしはそう思うのです。
ファンタジーの世界の中で、一番、「こっちがわ」に近い役割を演じている、クサナギツヨシ。

「はてしない物語」は、「『はてしない物語』という本を読んでその世界にのめりこみ、そして女王のあたらしい名前をつけることでその世界の住人となる主人公に、現実世界の「読者(多くの場合少年少女なのでしょうが)」が感情移入をしていく」という、多重構造のストーリーです。

「スタアの恋」もやっぱりそういう面があります。
でもちょっと違う。肝心なところの「立ち位置」が違うような気がする。

情けない、目立たない、ごく普通のサラリーマンを演じるクサナギ。これは「クサナギツヨシの現実世界」とはほど遠いのは確かです。彼だってパパラッチにおっかけられたりしてる「スター」さんなんだから(笑)。

クサナギツヨシが自由に行き来し、わたしたちの感情移入を助けてくれてるのは、「ファンタジーと『わたしたちの現実世界』」の間なんです。

「いいひと。」でも「成田離婚」でも、彼は同じようなタイプの主人公を演じてきたかもしれない。でも、それはあくまで、「あっちの世界にいる主人公」にすぎなかったような気がします。今回は、彼は「こっち側」にも足を踏み入れてるような気がして仕方ない。

「蒲田行進曲」で、「大部屋のヤス」を演じ、「チョナン・カン」で「日本ではスター、韓国では無名の一芸能人」を演じ、そういう、簡単そうで実はわりと難しいんじゃないだろうかという立ち位置をこなしてきた彼の、今、ある意味ほぼ頂上のようなものを、見ているような気がするんです。

どうしてそう思えてならないかっていうと、わたし、すごーーーく静かな気持ちでいるから。
すごく静かに、すごくまっとうに、すごーーく素直にあの世界を受け入れて楽しんで慈しんでいるからです。
これは、テレビドラマ嫌いのわたしにはあんまりないことなんですよ、ほんとのところ(笑)。
とにかくつっこみたくなるタチだしわたし(爆)。

今回のこの「スタアの恋」、もしかして、一回一回の細かい感想って、あんまり書かなくなるかもしれないです。いや、書きたくないんじゃなくて、毎回みるたびに、わたしのなかで「すとん」と落ちて消化して、わたしの実になっちゃってる感じなんです。だから、ほんとに、こころから「よかったぁ」しかでないんです。なさけないことに。

でも、ほんとに楽しんで、出ているすべてのひとたちを慈しんで、セリフ一つ一つを愛して、見ていくだろうと思います。

ひろいひろいスケートリンクで、手を後ろ手に組みながら、気持ちよく、のんびりとスケートをしてる、なんかそんな気持ちです。

・・・クサナギ。
すごいよ、君、やっぱり。

あ、それともうひとつ。キスシーンのこと書いておこう(笑)。

意表をついて、一回目に突然現れた「口と口」のちゃんとした(爆)キスシーン。あれを「ちゃんとした」と表現するかどうかはまた別のお話ですが(笑)、でも、クサナギツヨシ、テレビドラマ初公開のキスシーン。

あれは、「クサナギツヨシとして、あるべくしてあったものなのかもしれない」ってちょっとそう思いました。

たとえば前々回のTEAMスペシャルのときの綴とのキスシーン。「あれはもう、ちゃんと流さないとむしろおかしいだろクサナギ」とわたしは思ってました。あのときはたしかに、思ってました。

なぜあれがダメで、今回がオッケーだったのか。
あ、いや、クサナギくんがオッケーだったのかどうかは知らないですが(笑)、でも、わたしには、あれこそ「必要だったんだ」という気が今はしてます。

スターと、一般人をつなぐもの。

ああいうお話って、とにかく「どうやって二人は知り合ったか」というのがけっこう鍵になる、というか、それ次第で「ありえねーだろそれ」と白けてしまったりすることあるんですけど、今回のこのドラマでは、意外にあっさり流してました。いまだに、「なぜヒカルコがいきなりサンマルコハムに来たのか」わからんもん。
いや、もしかして謎解きがあるのかもしれないけど、でも、そこはこのつっこみ好きのわたしも別につっこまなくていいところなんです。

それは、あのキスシーンがあったから。

スターと、一般人を、奇跡がつないだ。その奇跡のキス。

わたしはそういう風に思いました。
そして、クサナギツヨシがあのキスシーンを演じたのは、あのキスシーンこそが、「あっちの世界」と「こっちの世界」を自由自在に行き来するために必要だったんじゃないかって、あれは、あっちの世界とこっちの世界をつなぐ「入国査証、Multipul Visa」なんじゃないか、と、そんな感じがしたから。

・・・川本さん、感想読んで、「ああ、このひとけっこう壊れてるなー」って思ってたんですけど(爆)、わたしも別の方向性で壊れてるかもね(爆爆)


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