『蒲田行進曲2000』管理人交換書簡2

11,00/01/31(月)19:11:40,そこには風が吹き、桜吹雪が舞い、そして太陽がありました/松本\r\r※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。

川本さま

名古屋公演、行ってきました。

クサナギツヨシは、風でした。
水であり、火でありました。そして空気であり、光であり、闇でした。

ただ、「太陽」ではありませんでした。
なぜなら、名古屋には、すべてのものの太陽、「銀ちゃん」がいたからです。

クサナギヤスへの賛辞を語る前に、わたしは錦織銀ちゃんに、最大級の賛辞を捧げます。

錦織さんは、まごうことなく、「平成の倉丘銀四郎」として、名古屋公演の舞台にいました。

錦織さんの銀ちゃんは、たとえば彼一流の頭の回転の早さで、場の雰囲気を感じとって細かいジョークで笑わせてくれるとか、エンターテイナーのかたまりとなって、「君だけに」と客席を指差して陶酔させてくれるような、そんな銀ちゃんではありませんでした。

あえてこういう表現を使わせていただくとすれば、名古屋の銀ちゃんは、余計なものをすべてそぎ取り、しかし、必要なものをすべて抱え込んでいました。

だから、銀ちゃんは、太陽でした。

狂おしいほど熱く、切なく、切れるような銀ちゃんでした。
「切ない」と「切れる」って同じ字なんですね。今気づきました。

銀ちゃんはすべてのものを持っています。それは間違いなく、銀ちゃん自身が、泥をなめるような思いをしながら、しかし自分の才能を信じ、「人間まじめに生きてれば、いつかいいことがあると信じられる力」を持てると信じて生き抜いてきた証です。「リストラされて、女房に逃げられて、しょんぼり映画館のかたすみでスクリーンを見つめているお客さん」に、”ああ、銀ちゃんがいる。だからわたしは生きていける”と思わせる力です。

ジャニーズなのに、ではない。ジャニーズだから。

家柄がないのに、ではない。家柄だけでものを判断するおろかさと戦える、ほんとうに純粋な思いがあるから。

すべてをなぎ倒す圧倒的な力があるから、いや、その力が持てるのだと、銀ちゃん自身が信じることができるから、みんな銀ちゃんが好きなのです。小夏は、ヤスは、銀ちゃんがいるから、自分の人生に立ち向かっていけるのです。

わたしは最後、クサナギヤスとともに叫びました。心の奥で、大声で叫びました。
「俺、銀ちゃんだーいすき!」

そして、そしてクサナギツヨシ。

銀ちゃんが、銀ちゃんとして圧倒的な力を持ち始めたとき、クサナギヤスはもう化け物ではありませんでした。

もちろん、相変わらず、怒りの表現はすごい。汗を、つばを、ほんとうに劇場中にまきちらしながら、ヤスは舞台の上にいます。客席が、息をすることすら忘れてしまうような緊張感に包まれます。

でも・・・・・なんということでしょう。ヤスは再び、また去年の「透明度」を身につけています。純粋で、無垢で、でも立派な男で、人生の悲しみを知っている。ヤスはまた違った姿でわたしの前に現れています。

演技の何が変わったわけではない。セリフだって、演出だって、クサナギヤスに関しては、さして変わってはいません。なのに、わたしが名古屋公演で感じた、ヤスの「透明感」を、いったいわたしはどう説明したらいいのでしょうか。

「笑っていいとも!」の、別人のようなクサナギツヨシがそのままそこにいながら、なお、透明なヤス。

ヤスは、どこまで行くのでしょうか。そしてわたしは、どこまでヤスを、追いつづけていけばいいのでしょうか。

・・・・・ぜったいに、追いついてみせる。

さすがに興奮していて、なんか長いし、情緒的になってますね(^^;;。でも、これが、今のわたしの思いです。

そして、東京公演がやってくる。東京公演でお刺身として舞台に上がるさかなたちは、今、どこを泳いでいるのでしょうか。

蛇足とは思いつつ注:
大阪公演のみをごらんになったみなさま、名古屋公演のみをごらんになったみなさま。わたしは決して、「今回自分が観た公演が最高で、あとはだめ」といっているつもりはありません。大阪では大阪の、名古屋では名古屋の、一回一回大切で、最高の舞台をいつも見させていただきました。ただ、「変化していく」、これだけは、どうしても止めることができないものです。止めてはいけないものだと思います。

それに、各千秋楽で、錦織銀ちゃんは言ってくれました。「また、この劇場に来たい」。その思いと、わたしたちの思いが、重なることはきっとあるのだと、わたしは信じていたいです。それが、わたしのできる、「人間まじめに生きれてばいいことがあると信じられる力」なのだと思いたいです。ずっとずっと長い目でみて、すべての公演は、一つの輪になってつながっているのだと、回りながら成長しているのだと、信じていたいです。

そこだけ、ご了解くださいますように。


12,00/02/04(金)04:27:33,つかこうへいが消えた/川本

※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。


松本さま

名古屋最終日を見ました。

銀ちゃんでした。見たこともない、でもこれが「蒲田行進曲」の銀ちゃんだ!
という銀ちゃんでした。銀ちゃんの言葉のひとつひとつに泣きました。

銀ちゃんで、そして錦織一清でした。

蒲田2000は、1999版に比べて、より、つかこうへいの主張やテイストが濃くなっています。具体性をギリギリまで削った純粋でシンプルな魂と魂のラブストーリーはどこかに行ってしまい、人間くさい人々の喜び、憎しみ、哀しみがあふれ、綱渡りの綱の上を歩むような、危ういセリフが飛び交う。

なのに、昨年の舞台の方が、より、つかこうへいが目だった。

たとえば、何度見ても泣かされてしまうのは、大部屋を去る岩崎さんとヤスのシーンです。昨年もこのシーンには感動しました。セリフは変わりません。なのに、今年は全然違うシーンに見えるのです。

昨年はまず、「北区の岩崎さんってうまいなあ、いい声だなあ」と思いました。
それから、「つかこうへいのセリフっていいなあ」と泣きました。
今年は「うまいなあ」と感じません。「いいセリフだなあ」とも思いません。
そこにいるのは、岩崎さんなのです。
昨年はつかこうへいの作ったセリフのすばらしさに泣いたのに、
今年は青森に帰る岩崎さんという人に涙しているのです。

「俺、ジェームス・ディーンになるんです」
「そう。じゃあ俺、その夢が叶うように、青森で祈ってるよ」

この「そう」という一言にあふれるあまりにも愛しい気持ちに、わたしは泣けて泣けてしかたないのです。岩崎さんは池田屋の主人を持ち役にしていた大部屋の岩崎さんで、そして北区つかこうへい劇団の岩崎雄一でした。

岩崎さんだけではありません。

こんなにもつかこうへいテイストが強くなりながら、

「つかこうへいのセリフってすごい」

と思う余地がまったくない。
名古屋初日に観劇した友だちが、
「銀ちゃんが中村屋にぶつける対決の言葉、つかさんがしゃべっているのかと思った」
と言いました。
しかし名古屋最終日のあとで彼女は、
「銀ちゃんの言葉だったね」
と泣いていました。
つかこうへいが、消えた。

とにかく、一言のセリフもない大部屋役ですら、その人のからだ全体からあふれてくるものに圧倒されるのです。ああ、ここにいる人の数だけ、人生がある、と。夜の車窓から見える家の灯りのように、そこに人間が生きていることを実感させてくれる。照明さえ当たらない、舞台奥の薄闇に立ちつくす役者の、いま、本当に感じている気持ちが伝わってくるのです。「表情を作る」のではなく「そういう表情になっている」のです。誰もがみんな。

それは、銀ちゃんが、銀ちゃんで、しかも錦織一清であるまま舞台の上に存在することを潔しとしたところから始まったように見えました。

そしてそれが、すべての役者に波及したのではないかと思うのです。誰もが役の人物であり、そして役者たる自分である。

セリフの内容が事実であるとかないとか、そういうことではなく、「そこで生きる」ことを、全員がいっせーのせ! で始めたような感じ。

「才能にまさる努力なし!」

でも、元もとその人の底の底に埋まっていた才能を掘り出すための努力は意味があるのではないか。“才能なし”と銀ちゃんに引導を渡されたキャラクターたちの中で、何かがはっきり変わっています。

そして、クサナギツヨシ。

彼はなんのためらいもなく、その変化のまっただ中にいました。ずっと前からいたように。これからもずっといるように。誰もが自然に舞台の上で生活しようと変わり始めた、その環境が気持ちよくてしかたない、かのように。どんな舞台になっても、彼はそこにいる。舞台の変化によって魔物に見えたり、透明になったり、けれど初演初日から、ヤスであり、クサナギツヨシであるまま。

それが「風」なのかな。

ひとつつけくわえると、初演で浮いていたヤスのセリフ、「つかこうへいのセリフっていいなあ」止まりだったセリフがすべて、この再演ではしっくりとなじんでいます。

「監督、俺はどうなってもかまいません。
 銀ちゃんのアップ、ハイオッケー!銀ちゃんかっこいい!
 ……よろしくお願いします。」

「岩崎さん! 俺は岩崎さんが帰ってくると信じてました!」

「おう! 猫助! 帰ってきたか!」

初演では、男の子が大人ぶって言ってるような気恥ずかしさを感じました。でも今年はすうっ、と心に入ってくる。クサナギツヨシが大人の男になったのでしょうか。

そして、つかこうへいは消えました。舞台すべてを覆い尽くしていながら。
それは作家・演出家にとって幸いであると、わたしは思います。


※松本さま
複数公演を見比べることについての書き添え、ありがとうございました。
幸いにも複数の公演を見ることができるわたしたちは、その分、ちゃんと。書き残していきましょう。と言いつつ、わたし自身、わけのわからない感想ばかりですが、もっと具体的な形で、蒲田2000を十年後、二十年後に振り返る、その助けとなるようなことができたら……。


13,00/02/05(土)22:43:56,the Phantom of the Opera/松本\r\r※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。


川本さま

ついに東京公演が始まりました。

わたしは、クサナギヤスを見ながら、途中でとんでもないことを考えていました。

「ああ、この蒲田行進曲はオペラだ」

クサナギツヨシとオペラなんて、通常で考えれば、「よりにもよってそんな取り合わせなんて」と爆笑されてしまいそうですが、でも、そう感じたのです。

広い広い舞台の上にクサナギツヨシは居て、劇場中に響き渡る声で、高らかに、誇らかに歌いづつけていました。
歌っていたのは「愛」でした。

それは自分のなにかへの愛なのか、自分が今浴びている愛なのか、わたしにとってそんなことはどうでもよくて、それはなにかもっともっと大きなもので、とにかくクサナギツヨシは全身全霊で、「愛している」と叫んでいました。ないていました。

青山劇場はとても大きな劇場です。「ちゃんと声が聞こえるんだろうか、見えるんだろうか」と不安に思っていらっしゃる方も多いと思います。
でもだいじょうぶです。

わたしは初日公演を、後ろの方の席で観ました。もちろん細かい表情は捉えきれません。ときにはオペラグラスが必要になることもあるのかもしれません。

でもだいじょうぶです。

クサナギツヨシの声は、多分マイクも使っているのかもしれませんが(その辺のたしかなことはわかりません)、劇場のすみずみまで直接響き渡っていました。そして劇場を震わせていました。

クサナギツヨシの演技は、ヤスの悲しみ、喜び、怒りを、劇場のすみずみにまで伝えていました。

やはり彼は魔物なのでしょうか。大阪で、名古屋で、東京で、各劇場のサイズに合わせて、自分の大きさを自由自在に変えています。決して極端に濃くなったり薄くなったりもしません。これもまた、「大きく打てば大きく響く、小さく打てば小さく響く」ということなのかもしれません。

それから、川本さんが書かれていた、「蒲田2000は、つかこうへいが全体を覆っていながら、なおかつ、消えている」、これはわたしもそのとおりだと思います。そして、一人一人の役者さんの「生」が見える、ということも。

錦織さん、クサナギさんだけではなく、みなさんが高い志を持った役者さんですから、いろんな思いをされていることもあるのだと思います。つらいシーンもありますし、ほかにもたとえばセリフの量とか、出演場面の数とか、そういうことでそれぞれがそれぞれにジェラシーを感じる、なんてこともあったりするのかもしれません(憶測です)。

でもそのジェラシーが全体をばらばらにはしていない。ジェラシーを突き抜けた向こうに、ほんとうの「カンパニー」があるのだと、観客に信じさせることができている。

わたしが好きな芝居は、舞台の上にいる一人一人が、絶妙なバランスでそこにいて、誰一人決して欠けてはいけない大切なキャストなのだと心から思える芝居なのだなぁ、と思います。

そしてこの「蒲田行進曲」こそ、そういう芝居であると。

さらに、その「蒲田行進曲」の中で、観客も大切な参加者の一人なのだと感じることもできています。
そんな「参加者としての観客」であるわたしたちが出来ることは、たとえばアンケートに感想を書いたり、友達に「こんな芝居を観たんだよ」って話をしたり、そして自分が見たものを、心の中に宝としてずっとずっと大切にしていくことなのだと、改めて思ったりもしています。

だからわたしは、このページで、参加してくださっているみなさんの助けをたくさんお借りして、「わたしたち観客にとっての蒲田2000」を残していきたいなぁ、とそんなことを今、思っています。


14,00/02/13(日)14:07:09,蒲田行進曲2月12日/川本

※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。


松本さま

初めて、一日2公演見ました。
体力使い果たしました。

クサナギツヨシ、またもやパワーアップ。
一度「もしかしたら千秋楽に向かってテンションが落ちてゆくのかも……」と根拠のない不安を感じたことがあっただけに、躍りたくなるほどうれしかった。

「安定感」があるのに、作られた感じがまったくない。
「安定感」があるのに、何度見ても緊張する。

舞台は全て一期一会、同じ時間と同じ空気を体験することは二度とできませんが、あのヤスと小夏の長丁場は、いつか、もしかしたら「完璧な自然体」として固着できるかもしれない……終演後にそんなことをぼんやり考えました。

松本さんが以前、「蒲田1999のクサナギツヨシは奇跡のようだったけど、今年は奇跡なんかじゃない」と言ってましたね。奇跡とは、ある意味、フロックに通じるほめ言葉でもあります。「体当たりの熱演」「何も考えずに突き進むパワー」。そんな含みのあるほめ言葉も多かった。どうせ長続きしやしない、という意地悪な視点もありました。

フロックなんかじゃない。今年、彼はきちんと自分で答えを出しましたね。わたしは「条件が揃えば、何年先でも何度でもきちんと再現できる奇跡」になるかもなあ、とも思いました。ただその「条件」を再現することのほうが、これから難しくなっていくでしょうが。

夜の部、キレた直後の小夏の行動、すごかったですね! 「抱いて!」「大砲ぶちこんで!」 やはりキチガイは中村屋と小夏にとどめを刺します。若山先生のキチガイはマンガっぽくて愛らしいけれど、中村屋と小夏はひとつ間違うと命をとられそうなキチガイです。キチガイではないのに、さらにその連中より怖いものを隠し持っている、普通の人、ヤス。いいコントラストです。


唐突ですが、The Phantom of the Opera。
突然、松本さんからこの言葉が出て、かなり動転しました。

1987年にロンドン初演キャストを見ました。
素晴らしかったです。初めて蒲田1999のクサナギツヨシを見たときの震えに近いものがありました。その後、ロングランキャスト、日本のキャスト、何パターンかのファントムを見ましたが、震えは二度と感じませんでした。ただ「すばらしく完成されたシステムの芝居だなあ」という感心だけが残りました。これだけシステムが完成していれば、世界中、いつでもどこでもある一定レベルでの上演が可能だなあ、と。

ロンドン初演のマイケル・クロフォード、サラ・ブライトマンの二人は、この世界的ロングラン 、システマティックな芝居の最高峰のひとつと言ってもよい作品の歴代キャストの中で、恐らくもっともシステムにそぐわない人たちでした。特にクロフォード。この人のサントラ版を聞くと、音域は異常に広いけれど、オペラ的歌唱ではまったくないし、きちんとメソードで身につけた歌ですらない。ブライトマンも音域はすごいけれど、口の中に大きな玉でも入れているのか、と言いたくなるような、妙な歌唱です。しかし、クロフォードは、怪人の孤高、狭量、僻み根性、嫉妬、誇り、深い愛……複雑なその人物像を余すところなく伝えてくれました。

途中に翻訳が入らず、感情がダイレクトに観客の心に届く。
クサナギツヨシの演技に通じるものがあったなあ、と思い出します。
二度と、あのおぞましく、いかがわしく、卑俗で、しかし天使のようにピュアでもあったファントムは現れないでしょう。しかし、このミュージカル自体は、世界各地の無数のキャストによって永遠に残ってゆく。

錦織一清の銀ちゃん、クサナギツヨシのヤス、小西真奈美の小夏の「蒲田行進曲」は、キャストが変わったらまったく別のもの。

芝居にもいろいろありますね。

ところで、ロンドンの劇場で、隣に座っていたのは退役軍人のイギリス人ご夫妻でした。ドレスサークルという天井に近い安い席ですが、開演前に、どこから来たのか、どうやってこのチケットがとれたのか、チケットショップでいくらか高く購入したことを言うと、高くてもあなたが買えてよかった、我々は半年前に予約してこの日を楽しみに毎日真面目に生活してきた、あなたが楽しんでくれることを祈っている、と。そして、果てしないスタンディングオベーションの波が退いた後、涙の止まらないわたしに「わたしたちもとても感動した。あなたに喜んでもらえて、わたしたちは誇りに思う」と握手を求めてくれました。

ロンドン郊外に住む老夫妻が、つつましい毎日を送りつつ半年後のオペラ座の怪人観劇を楽しみにし、たまたま隣り合った日本からの観劇者に「喜んでもらえて我々も誇りに思う」と言う。イギリスが世界に誇るべきシェイクスピアでも何でもない、観光客向けミーハー人気とさえ言われたミュージカルの劇場で。

2010年に、10年ぶりにもしも今のキャストで「蒲田行進曲」を上演することがあったら、どんなお客さんが集まるのでしょう。

絶対長生きしてやる。長生きして、クサナギツヨシの「全仕事」を見届けてやる、と、最近生きる気力に燃えるわたしです。


15,00/02/14(月)00:11:25,わたし、目が燃えてるんです(笑)/松本\r\r※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。


川本さま

まず最初に、今回ちょっと、話し方がラフになるのをお許しください。

13日昼公演を見てきました。・・・・・これがまた、演出が変わってるのですよ(泣)。
もうほとんど泣きが入ります。

変更があるだろうというのは、今日つかこうへい事務所のTopページを見てなんとなくは理解していたのですが、実際にそれを見た後、劇場を出るまで、足ががくがく震えて、ほんとに倒れるかと思いました。

成長していく。役者も、それこそ「僭越」だと、木刀ものでしょうが(笑)、演出家も成長していく。

だってね(また泣きが入る)、そもそも、ストーリーとして、そんなにいろんな解釈がある芝居じゃないように思うんですよ。

「スターが恋人はらませて、弟子におしつけた話」

・・・・・・思いっきりシンプルにしたら、これじゃないですか?

それなのにどうして、わたしはあの芝居を見て、錦織一清を、小西真奈美を、クサナギツヨシを見て、ここまで狂ったようになるのでしょう。いや、わたしだけじゃないです。役者が、狂ったように、憑かれたように演じつづけられるのでしょうか。

クサナギツヨシ。

今日の変更点は、クサナギツヨシへの演出にありました。

東京公演で時々思っていたんですけど、クサナギツヨシにからむ変更点があると、クサナギ、ぜんぜん関係ないところでセリフかんだりすること多いんですね(笑)。
「あれ?今日はクサナギくんよくセリフかむなぁ」って思ってみてると、後の方で違うセリフが入ってたりする。

ところが今日はそんなこと、ぜんぜんありませんでした。ぜんぜん、とは言わないけど、でも特に気にならなかった。よくある(最近、あの芝居は「普通にものすごい」と思います)、しかしかなり高いレベルの芝居を見させてもらってるなぁ、と思いながら、最後のシーンに向かっていました。このまま、「普通にすごい」感動を貰ったまま、家路につくのかなぁ、って思っていました。

どっかーん・・・・・・・・・・。

今日の公演をごらんになっていらっしゃらない方がこれをお読みになると、「いったいどんなことになっているというんだ、ちゃんと話せ」とお思いになる方もきっと多いと思います。でも、言えないんです。たとえわたしがそこに至るセリフをきちんと説明できたとしても、この「どっかーん」を説明することが出来ないんです。

階段落ちの後、銀ちゃんの叫びに応えて、ヤスはいったん立ち上がります。昨日までは、「そうだ、俺はおやじになるんだ」と言って立ち上がっていました。

今日は、彼は完全に立ち上がることができませんでした。でも帰ろうとするんです。灯りのついた部屋に、愛する小夏のもとに。そして最後に叫びます。「銀ちゃんのアップ、撮れましたかー?」・・・・・・

クサナギツヨシの、愛の表現が完璧でした。銀ちゃんへの、小夏への、本来双方へ同時に愛を送ることは矛盾しているはずなのに、ヤスはそこに悩み、苦しんでいたはずなのに、なんの矛盾も感じられない、純粋な「愛」。

・・・・ごめんなさい、やっぱり今、これ以上の言葉がありません。

去年、蒲田行進曲を観ていたときに一度、「敗北感」のようなものを味わったことがあります。単に客としてみてて敗北感もなにもないんですが、でも、役者の、脚本の持つ圧倒的な力に押されきって、「わたしはなにをしているんだろう」というきもちになったことがありました。

今日は違います。なんだか闘争的になっています。「負けて、たまるか」
客としてみてて負けてたまるかもこれまたおかしな話ですが、でもそういう風に思っています。

わたしも見てみたいです、いつか、ずっと時間が過ぎたときの蒲田行進曲を。2010年といわず、20100年の蒲田も見たいくらいなきもちです。

ところで「tha Phantom of the Opera」。わたしは確か1993年くらいに、アメリカでこのミュージカルを見ました。わたし自身はそのとき、通常の感動以上のものを得ることは残念ながらなかったのですが、でも、きっと心のどこかに、その影響は残っていたのだと思います。その後本を買ったりしましたしね。

そしてここで大きくぐるっと回って、クサナギツヨシを語る場で、川本さんと二人でこの言葉がでてきたというこの事実。

人生って、面白いですね。苦しいことの方が多いんだけど、でも、面白い。

今上演されてる蒲田行進曲も、わたしの人生のずっとずっとずっと後の方になって、突然また目の前に姿をあらわしたりするのかもしれませんね。多分、驚くほど、鮮やかに。

蒲田行進曲2000は、いよいよ最終コーナーへ向かっていきます。役者が、というより、今は芝居そのものが、F1レースになっています。このままアクセル全開で、突っ込んでいってもらいたいです。


16,00/02/18(金)10:53:55,ちいさなこと/川本

※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。

松本さま

17日に観劇することができました。
松本さんの泣きが入ったラスト、わたしも受けとめましたよ。
見た直後はただ「やられた」状態でしたが、
しばらくたって、ああ、この蒲田行進曲は、完結したなあ、と感じました。
エンドマークをしっかり打たれた、と。

……と感じ入ったそばから新しい演出にやられるのにももう慣れっこですから(笑)、なんだ、終わってなかったじゃないの、と思う日が来るかもしれませんが。

17日冒頭。

小夏にちょっと優しくしてもらったからうれしくなって、小さな花束をわたしにトコトコ出てくるヤス。歯牙にもかけられず、輝く二人のスターの後ろ姿を眺めているヤス。めくるめく照明。回転を始めるミラーボール。

すると、ヤスが、ゆっくりと振り返ってミラーボールを仰ぎ見たのです。スターだけが浴びることのできる光の雨を降り注ぐ、ミラーボールを。彼には決してそそがれることのない、頭上を通り抜けてゆく雨を。

ああ、まだつかこうへいは、ここまできて、こんな小さなことをくわえてくる。小さいけど、こんなにグッとくる変更を。ちゃんとクサナギツヨシのことを気にかけてくれている。うれしかったです。

なんだか昨日の観劇は不思議な気分でした。涙は出たけど、微笑んでしまうことが多かったんです。ヤス、よかったね、あなたの心は伝わっているよ、と。

あと3日、5公演。

ごらんになった方の感想、たくさんお聞きしたいですね。


17,00/02/21(月)20:58:26,そしてわたしは途方にくれる/松本\r\r川本さま

終わってしまいましたね、「蒲田行進曲2000」。
自分でも今、このきもちをどう処理していいのかよく分からなくなっています。
日に日に情緒的、感情的になっていって、ほんとはこの会議室でそういうの、あんまりしたくなかったのに、冷静に、冷静にクサナギツヨシを知りたかったのに、もうどうしようもありません。

千秋楽昼公演でついた新しいセリフ。

それは錦織銀ちゃんから、クサナギヤスにかける、最後の言葉でした。

「握手くれないか?」

とまどうヤス。
銀ちゃん、ヤスの手を取り、そしてそっとその手を離す。
手を離しながら銀ちゃんは、低い、ほんとに心の奥底にしみいる声でこう言います。

「あたたかいな・・・・・・宝にさせてもらうよ」

これ以上、わたしはいったいどうしたらいいんでしょうか?この言葉は、どこの宇宙に落ちていた言葉なのでしょうか。こんな言葉が世の中にあったなんて、知らなかったわたしがおろかなのでしょうか。

銀ちゃんは、ヤスの「握手」を宝にしたのではありません。銀ちゃんは、ヤスの手の「あたたかさ」を宝にしてくれたのです。

あたたかさ。それは、生きるものすべての、命の証。

自分のために、小夏のために、生まれ出でる子どものために、そして映画のために、今まさに死んでいこうとする一つの命の、最後のあたたかさ。

大部屋俳優のヤスは、スターである銀ちゃんのように、ミラーボールきらめく下で、小夏と踊ることはできなかったけれど、「スターの華」で、映画を観に来る人の、さびしい心を救うことはできなかったけど、ヤスがいつも考えていたという、「人が生きることの意味を/人を愛することの意味を」”考えること”をわたしに教えてくれたのです。

「蒲田行進曲2000」で、クサナギツヨシは、もはやアイドルではありませんでした。だって、鼻水たらして、鼻水を舞台に飛ばして、白目をむいて、自分の怒りや、悲しみや、喜びや、愛を表現していたのですから。

もしかしたら、あの瞬間、クサナギツヨシは役者ですらなかったのかもしれない。

あたたかい手をもった、一人の人間がそこにいたのかもしれない。

でも、ヤスのあらゆる感情を、的確にわたしに伝えてくれたのは、やっぱりクサナギツヨシの役者としての比類なき才能の故かもしれなくて・・・・・

で、これ以上、わたしはいったいどうしたらいいんでしょうか?

大阪公演のころ、わたしはBBS参加者の皆さんに、思わず叫びました。「助けて」
またもう一度、同じ言葉を言います。

「助けて」

一人では、クサナギツヨシを語ることなんかできません。どんなに大好きか、そして彼がどんなにすばらしい役者なのか、一人では伝えることなんかできません。

どうか一緒に、考えてください。みんなで、「勝手にクサナギツヨシを考える選手権」をやりましょう。

ただし!

クサナギツヨシ、2回や3回おまえに負けても、支払いはしないぞ←逆切れ(笑)


18,00/02/26(土)22:45:08,よいスタートであります/川本

松本さま

瞬く間に千秋楽から一週間経ってしまいました。
途方に暮れたままの松本さんをほうりっぱなしにしてすみませんでした。助けてあげられなかった。直後はどうしようもないですね。お互いに、沈んでゆく浮き袋にしがみつきあっているようなもので、助けようがない(笑)。
だいぶ立ち直ったみたいで、安心しました。もちろん、わたしも人のことは言えない一週間でしたよ……。

今は、ホッとしています。
ああ、蒲田終わったなあ。クサナギツヨシにとって2年越しのよいスタートだったなあ、と。

早く次のお仕事が表に出てこないかしら、何を見せてくれるのかしら、と、楽しみで仕方ありません。

ヤスの演技について、つかさんからほとんど指示はなかった、と聞きます。ストーリーの中、ヤスの気持ちの解釈も表現も、クサナギツヨシにまかされていた、と。それでよいのだ、と。ただ、つかさんは、深い深い的確なセリフを与えていったと。その上で、この立ち位置では動きが見えにくい、この角度では表情が伝わりにくい、と、最後の最後まで、クサナギツヨシのヤスをよりよく見せるための細かい直しが入ってくる。ああ「つかさんとツヨシは仲良しなんだな」と、舞台を見ていても思いました。

「ツヨシ、なぜ泣くの」、であります。
君は、翼の封印をつかさんに解いてもらったんじゃないか。
君は、勇き光の戦士じゃないか。
いつかまた、そしていつだって、一緒に歩くんじゃないか。

ひとっくくりにしてはいかんとは思いますが、時に、男はつくづくバカだなあ、と思います。想いが通じ合っているかどうか、なぜわからないんだろう、男は、と。バカだから、だから魅力があるのでもありますが。

もうとにかく一刻も早く、次のクサナギツヨシのお芝居の仕事が見たいです。ドラマ、映画、舞台、なんでもいいから見たいです。もちろん、3月に『メッセンジャー』4月に『チーム』のビデオが出て、再びひたることはできますが、リアルタイムで進行中のものが見たいなあ。舞台が2月で終わるから4月からドラマあると思ったのになあ。さみしいなあ……って、クサナギツヨシに休んでほしいという感覚がないらしいです、自分。

つかこうへいの、次の仕事も早く見たいです。今日と明日、大分で『ロマンス2』が上演されていますね。ごらんになった方の感想が聞きたい! 大分はむりですが、北区つかこうへい劇団の前売り券はしっかり買って楽しみにしています。わたし、昨年、お財布買い換えたんですよ。ローソンチケットが入る大きなポケットのついたお財布に。その中に詰め込んでいたチケットがドンドン減ってゆく。去年、蒲田、サバイバル、紀伊国屋、サイコパス、ロマンスと続いてきたチケットが切れた時はさみしかった。二代目はクリスチャンまで2ヶ月もありましたからね。……「も」って……ぜいたくかしら。

今回の蒲田行進曲は、銀ちゃんのスタンスが明確になることで、人間ドラマとしての深みが増していました。銀ちゃんと大部屋達との距離。その距離が、ヤス、トメさん、トモベ、猫助、キョウスケ、ヨウジ、ヒロトシ、大阪だけ存在したワタナベ、みんな違う。

銀ちゃんは、スターではありませんでした。いや、スターだけど、本当の大スターではない。中村屋や若山先生のように、勝新や阪妻のように、伝説を作れるスターではない。でももう少しでそこに手が届きそうで、届きそうなまま何年か経過して、恐らくこの主演を失敗したら、もはや転落の一途。そんなスターです。華があり、芸もあり、魅力もあるのに、何かが足りない。というより、何かが多すぎる。それは、銀ちゃんの“優しさ”。

……まだこんなことをいろいろと考えてみたくなります。

さあ、スタートしましょう。
蒲田が終わってからが、この「クサナギツヨシ研究所」の本当のスタートであります。


19,00/03/08(水)06:13:30,”2”のファイブカード/松本\r\r川本さま

Web上で、大変ごぶさたしておりました(^^;;。
わたしの「蒲田病」もようやく急性期を過ぎて、少し落ち着いてきたところです。
しかし落ち着いてはたと考えて、これからわたしは「クサナギツヨシ」についていったい何を語ればいいのだろう?って思ったら・・・・・・正直ちょっと困っています。

この間みなさんが、「蒲田行進曲」上演中に書き込みをしてくださったことばを全部読み直して、「キーワード抽出」をしていたら、大阪、名古屋、東京と、あの芝居は、そしてヤスはずいぶん変わっていったのだなぁ、って改めて気づきました。

大阪で、「鬼」「怖い」と表現されていたヤスが、東京では「透明」「邪心がない」と表現されるようになっている。

ヤスが、そしておそらくクサナギツヨシ自身が、この2ヶ月の間に、「自分の思いだけを叫びつづける魔物」から、「暖かい手をもった一人の人間」に変わっていったのだろうと思います。

ただ、あれだけずっと長いこと、「生」のクサナギツヨシを見てきたわけですから、今テレビに映ってる「ちょっと前のクサナギツヨシ」が、完全に「蒲田後のクサナギツヨシ」に変わっていき、そしてわたしたちが、「蒲田後のクサナギツヨシ」について語りだすことができるのにはちょっと時間が必要なのかな、って思ったりもしています。

「メッセンジャー」のビデオが発売されたら、少し話せることが出来てくるのかもしれないですね。多分、ロードショーで見たときと、また違うことを感じるのではないだろうか、って予感がします。

で、今日は、クサナギツヨシについて思ったことをちょっとだけ。

クサナギツヨシって、ずっと、ポーカーやってるのに、トランプの「2」とか「3」とか「7」とか集めてきたように思うんです。「それもまぁいいけど、何枚か絵札持ってると楽なんじゃないのー?」なんてわたしは思っていたのですが、でもクサナギツヨシはずっとそういうカードを集めてきました。

そして「蒲田行進曲」がはじまったとき、クサナギツヨシがテーブルの上に「勝負!」と広げた5枚のカード。

・・・それは、”2”が5枚(笑)。

「ちょちょちょちょっと待てぇっ!」という感じで、いったいその5枚の”2”はどこから出てきたのか見当もつかなくて、でもわたしが彼を見てきた限り、彼はイカサマなんかはしたことがなくて。だから見ているこっちは大混乱しますが、でもでもどう考えても、テーブルの上には”2”が5枚。

”2”はポーカーの最弱カードなんだけど、でも、5枚。

「これって・・・・強いんだよね?」
「フルハウスとかフォーカードとかよりは強いんだよね・・??」
「・・・・こういうのってもしかして、ロイヤルストレートフラッシュより強かったりして・・・・???」
「うー・・・わかんない・・・」

わたしは今まで持ってた価値観をぐちゃぐちゃにされて、いろいろ考えて、どうにも答えが見つからなくて、でも、何度、何度見直しても、彼のもち手は”2”のファイブカード。

「ちくしょー、なんか納得いかないけど、でももうこうなったら、『”2”が5枚』を前提にして話していくしかないじゃん」

・・・クサナギツヨシは、わたしの中に本来あったルールさえ、変えてしまったかもしれません(笑)。


20,00/03/21(火)12:07:24,次の一歩の前に/川本

松本さま


相変わらず遅くてすみません。
そろそろ普通のペースに戻らないといけませんね。蒲田が突っ走りすぎましたからね、気分的に(笑)。このサイトは長い勝負になりそうですから、焦らず、でも確実にいきましょう。

「2のファイブカード」。言い得て妙!
真剣勝負。ルールを守れ、と言われるけど、そも、ルールとは何なのか。誰が決めたものなのか。

スポーツやゲームなら、確定したルールがあります。なければ戦えない。

しかし、演技にルールがあるのだろうか、芝居の評価にあるのだろうか。
クサナギツヨシはそんな疑問に、ひとつの答えを投げつけました。

3/18の日経朝刊に、若手劇作家の動きを取り上げた記事が掲載されました。その中で、ある劇団主宰者の方が「蒲田行進曲に出演したSMAPのクサナギツヨシはすごかった」と語っています。それだけでももちろんうれしいのですが、この発言はそれ単独ではなく、ある意味を持ったものとして取り上げられてています。

“以前の演劇青年にありがちだった有名タレントに対する屈折した感情はなく”

という前振りがついているのです。ほめてもらったこと以上に、わたしはこの一行がとてつもなくうれしい。2のファイブカードなんてルール違反だ、2のファイブカードは芝居ではない、2のファイブカードはなかったこととして無視する、ではなく、「すごい」となんのためらいもなく認めてもらっているのだ、と。別に“以前の演劇青年”に限らず、演劇界において「2のファイブカード」は、すごいかどうかの検討の土俵にすらあげてもらえないのかな、と感じていましたので。

かなり筋金入りの演劇ファンである友人が、千秋楽最終公演を見ました。彼女はクサナギツヨシの演技を評価はしているけれど、ジャニーズである、ということに非常にこだわりを持っており、その前に見たときも「カーテンコールでバック転を見せるのは芝居としておかしい」と苦言を呈していた人です。その是非はともかく……。

最終公演後には「銀ちゃんが逝く」の予告とも言えるオマケがついていました。錦織さん、小西さん、クサナギツヨシ、JACのみなさんが、鈴木祐二さんのアナウンスにのって繰り広げる殺陣と寸劇。蒲田行進曲1999を思い出させる「RUBY」の殺陣、小気味よくピシピシと決まったところに、下手そでから鮮やかな3連続バック転で飛び込んでくる白タキシード。後方で見ていたわたしは、てっきりJACの方だと思いました。しかしそれは、クサナギツヨシでした。

終演後に会った演劇ファンの友人は、芝居に感激して泣きながら「悔しい悔しい」と言うのです。芝居はともかく、寸劇で「まさかクサナギツヨシだと思わずに、かっこいい!と思ってしまった自分が悔しい」と。芝居なのに、芝居を見に来たのに、なんで「きゃー!」と思わなきゃならないの、そんなのおかしい、と。

爆笑してしまいました。「カーテンコールでバック転をするのはおかしい」という“意見”ではなく「かっこいいと思っちゃったのが悔しい、こんなのあってはいけない」という発想。ああ、これが、大多数の“演劇ファン”の発想なんだな、と。

何が正しい、何が間違っている、とまで自分の意見は固まっていません。でも、何か、動いているものがあるなあ、と、クサナギツヨシが動かしたものがあるなあ、と、春だからでしょうか(笑)、少し浮かれております。

3月27日(月)、フジテレビ系で『世にも奇妙な物語』春の特別編が放送されます。この中の一本に、クサナギツヨシが出演するそうです。月刊ドラマにシナリオが載っているそうですので、ネタバレなしで見たい方はお気をつけください(笑)。

その先のお仕事はまだわかりませんが、3月17日に『メッセンジャー』のビデオとDVDが、4月19日に『TEAM』のビデオが発売。去年のお仕事を振り返ることができます。掲示板でも、盛り上がりたいですね。

『メッセンジャー』と『TEAM』のファン掲示板を時々見ていますが、どちらも多くの男性ファンが熱く書き込んでいて、うれしくなります。こちらの掲示板に書き込んでくださってる方もおられますね。こんなに熱心な男性ファンがつくような作品に出演できたんだな、この熱気の一翼を、間違いなくクサナギツヨシが担ったんだな、と、ひたすらうれしいです。

次の一歩の前に、去年のいいお仕事を振り返って語り合いましょう。
そして、次の一歩が早く見えてきますように。