『蒲田行進曲2000』管理人交換書簡1

1,99/12/31(金)17:00:58,クサナギツヨシは、果たして「天才」なのでしょうか?/松本

川本さま

前回の「蒲田行進曲」が始まる直前の記者会見で、つかこうへい氏により何度も発言された「クサナギツヨシは天才」という言葉。初めて聞いた時には、「はぁ?」っていうのが正直な感想だったことを思い出します。あの時は、「一種の誉め殺しか?」とまで思いました。

あの舞台以前に、何度かテレビドラマでの彼の演技を見てはいました。ある種の存在感のある演技だったのは確かです。その頃のわたしは、「クサナギツヨシって、ずーっとずーっと将来、”彼が出てると舞台がなんとなく締まる感じがしていいんだよね”っていうような、渋い脇役俳優をやっていくのがあっているんじゃないだろうか」って思っていました。

それは、彼が舞台の中心にいて、彼の周りで、彼によって人が動いていくような芝居が彼に出来ると思っていなかったからです。むしろ彼が人の周りで動いていて、そのことで主演級の役者が、その芝居が「まろみ」みたいなものを加えていく、そんな感じの役者さんなんじゃないだろうか、と思っていたのです。

だから、「蒲田行進曲」というあまりにも大きな、あまりにも有名な脚本の主演を務めるということ、そして「クサナギヤス」のために、つか氏が夢中になって台本を次から次へと書き換えていること、そして、「天才」という発言。そのあたりの情報を紡いで形にすることがとても難しく、公演前は「一体どんなことになっているんだろう?」という不安でいっぱいだったことを思い出します。

しかし、公演が始まって、わたしが目の当たりにした「クサナギツヨシ」は、まごうことなく、舞台の中央にいて、舞台、客席、すべてを動かす役者でした。

それでもわたしの中で、未だに、クサナギツヨシを「天才」と呼ぶのには抵抗があります。わたしのイメージする「天才」とは、例えばまったく未知の楽器を持たせた時に、一般より早いスピードで、一般レベルをはるかに越える音色を出せること、役者でいうなら、一般の人よりはるかに豊かな、「創造性、想像力、場に対応する適応力」を持っていることなのではないかと思っているからです。そして未だに、彼にそれらの力が備わっているとは思えないのも事実なのです。

彼の出ているバラエティ番組などを見ていますと、時折、彼が自分がテレビに映っていることも忘れているかとも思えるくらい、その番組でしゃべっている、動いている人を真剣に、興味深げに見ている場面に遭遇します。まるで彼が、それを見て何かを得ようとでもしているように。

だからわたしは、彼は「天才」なのではなく、むしろ努力に努力を重ねていく、「秀才」タイプなのではないかと思うことが多いのです。

しかし。
「蒲田行進曲」でのあの彼の演技は、「努力に努力を重ねた上にようやく勝ち取った」タイプのものにはとても見えませんでした。いや、すでに、「演技」という風にも見えませんでした。多くの人がそう感じておられるように、そこには、ただ、「ヤス」がいたのですから。

そして「蒲田行進曲」以降、テレビ、映画なので彼が見せる演技は、ますます、「ただその役にしか見えない」という感じが強くなっているように思います。それはやはり、演技のノウハウ(そういうものがあるのかどうか自体をわたしは知らないのですけれど)、理論、そんなものを越えたところに、役者クサナギツヨシがいるからなのかもしれない、とも思ったりして、わたしの混乱の度合いは深まります。

川本さん、
クサナギツヨシは、果たして「天才」なのでしょうか?
川本さんはどう思われますか?


3,00/01/04(火)03:10:50,天才、の解釈にもよりますよね/川本

松本さん、難しい書き出しを受け持ってくれて本当にありがとうございます。

そもそも、わたしは「いいひと。」「成田離婚」を見て「すごい男の子がでてきたな」と思った口なんです。主演作2作を見て、この人は主演の人だ、とも思いました。特に「いいひと。」は、彼なくしてあり得ないドラマだと感じたんですよ。それは存在感であり、すべてがウソであるおとぎ話を現代の話として成立させてしまったリアリティ、そしてテーマを背負う力。“夢”などとという、今どき子供でも口にしないテーマを、あんな若い人が説得力持ってつきつけてくるのに驚きました。うまいヘタはあまり気になりませんでした。舌が回っていないところがある、演技のバリエーションはあまりない、それはわかる。しかし、そんなことはどうでもいいほどの“疾走感”を味わわせてもらいました。そもそも、エンタテイメントは頭から終わりまで突っ走る力があるかないかで評価する方で、作家も演出家も役者もそういう人が好きだから、なのですが。

蒲田行進曲への抜擢が噂された段階でも特に不安はなく、彼のヤスを見てみたい、と楽しみだけが募っていました。

まず、「天才」の概念を二人で共有しなければいけませんね。

>まったく未知の楽器を持たせた時に、一般より早いスピードで、
>一般レベルをはるかに越える音色を出せること、
>役者でいうなら、一般の人よりはるかに豊かな、
>「創造性、想像力、場に対応する適応力」を持っていること

なるほど。
たぶん解釈の違いだと思うのですが、わたしはこれらの力が彼に、ある、と思います。

たとえば、よい詩集を一冊与えて、彼に朗読しなさい、と言ったら、彼はどのように読むだろうか。わたしはとても聞いてみたいし、人の心に響く朗読ができると思うのです。数少ないナレーションの仕事を聞いた人がもれなくそれを評価するのを聞いているから、でもあります。一編の詩の中に、彼は何を想像し、それを伝えようとし、結果として何を創り出すのか。期待できないでしょうか。

松本さんの言う「ない」という意味もわかるのです。天賦、という言葉がありますね。

「天が与えること。天から授かったもの。生まれつき備わっている性質、才能」(大辞林)

彼は“テレビタレント”としてあまりにも「授かっていないもの・能力」が多い人です。

的確なアドリブを出す、
バラエティの形式的な役割を果たす、
実際以上の喜怒哀楽を出す、
冷静にかつ盛り上げて進行する、
コミュニケーション維持のため、特に意味はない言葉できちんとつなぐ、

……書いていて、少しむなしくなってきました(笑)。
役者として評価されていながら、バラエティで寸劇を演じさせるととことん失敗する不器用なところも、彼を応援し彼を信じつつも「……大丈夫かしら」とファンを不安にさせる要因でしょう。
しかし、この「与えられていない」ことがかえって、彼には幸いだったのではないでしょうか。

自分で履歴書を書き、どうしても芸能界に入りたい、芸能界に残りたい、芸能界で上にあがりたい、と懸命な若者に、天がわざと授けなかったもの。それもわたしは「天才」ではないかと思うのです。

中途半端ですみません。もっともっと考えてみたいです。


4,00/01/11(火)18:48:59,He is gifted for acting/松本

川本さま

早くここの書き込みを進めなければ、と思いながら、ずるずる時間が流れてしまいました。
掲示板や、メールでいろいろご意見をいただき、いっしょに考えていただいたみなさま、ありがとうございました。

そうですね、「天才」というのは「オールマイティ」というのとは違うわけですから、たとえ彼になにか足りないものがあったとしても、ある突出した、常ならぬ能力が彼に備わっているなら、彼はやはり「天才だ」と言うことができるのかもしれません。

ここでわたしがあっさり、「やっぱ天才!」って言っちゃうと、なんの討論にもならなくなっちゃうのかもしれないけど(笑)、役者クサナギツヨシにはいろいろわからないことが多いので、ひとつひとつ進んでいこうかなぁ、なんて思います。

ただ、やっぱり彼を「天才!」って誉めようとするとなんだかくすぐったくなってしまうのは、天才って、もう少し能動的なんじゃないかなぁ、って思うことがあるからです。もちろん、彼になにか優れた能力があって、彼はそれを人知れず隠して育ててきたのかもしれませんが、彼の中の、どこかちょっとわかりにくい場所にあったその能力へ続くドアを、何気なく開けた人がいて、それで今のクサナギがいるような気がして・・・だからむしろ「天才」という言葉はその「ドアを開けた人」に向かって言うべき言葉なのかなぁ、って思ったりもするんですね。

でもとにかく、クサナギツヨシという人が、演じる、ということにおいて「gifted(天賦の才がある)」であることは間違いないとは、それはわたしも思います。そして、

>彼は“テレビタレント”としてあまりにも「授かっていないもの・能力」が多い人です。

これについても、賛成です。このことが、彼に与えたであろう、「自分の潜在的なフラストレーションやコンプレックス」になり、その爆発が、彼の持っていた別の潜在的能力といっしょになって、あのヤスにつながっていったのであろう、ということも。

それと、もうひとつ。

前回のヤスは、その過激な、狂気すら漂わせていた後半のシーンが大きく話題になり(媒体によっては「悪役」と表現してるところもありましたし)、わたし自身も研究室の方では執拗にそのシーンのことだけ語り倒しているわけですが(笑)、ただ、クサナギ自身は、パンフレットや、インタビュー記事などで、「腹たったとか、やさしくなれるとか」と、必ず、「やさしい気持ちになれたこと」にも触れています。クサナギが、芝居を通して、相手役に対して「こんなにもやさしい気持ちになれるんだ」って気づいたことも、彼のそれ以降の演技にきっと大きく影響しているんだろうな、っていうこと、何かの機会に書きたかったので、ここで唐突に触れておきたいです。

ほんとに、もうすぐ始まりますね、「蒲田行進曲」。


5,00/01/17(月)12:03:32,蒲田行進曲2000序盤/川本

※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方はどうかお読みにならないでください。


松本さま

蒲田行進曲2000。

わたしは1月15日(初日)、16日昼の2公演を見ました。
松本さんは16日夜も見たんですよね。

基本的な骨組みは変わっていない。3人の関係が鮮明に、シンプルに表に出るようになっただけ。それなのに、それぞれの役割に去年とは大きな違いを感じました。

銀ちゃんの、せっぱ詰まった人間の哀しさ、美しさ。他人に対して冷たくすればするほど自分に返ってくる痛み。銀ちゃんの弱さと、それゆえの美しさがきちんと描かれた台本に、錦織さんの人物造型がぴったりとはまって、切なく、哀しかった。泣かされました。「男」の元型を見る思いでした。静かな海のようでした。

「スターの華というのは、人間マジメに生きてりゃいいことがあると信じる力のことだ」

このセリフが、今年の銀ちゃんには真正面からスパッと合っていた。去年の銀ちゃんは「どこがマジメなんだよ!」と突っ込みたくなる、それゆえの哀しさだったけれど、今年の銀ちゃんが絞り出すようにいうこの言葉は、胸に切々と訴えかけてきます。

じゃあ、ヤスはどう変わったのか。

>前回のヤスは、その過激な、狂気すら漂わせていた後半のシーンが大きく話題になり
>(媒体によっては「悪役」と表現してるところもありましたし)

悪役、ではなく、悪、そのものではないか。
狂気すら漂わせる、ではなく、狂気そのものではないか。
それほど蒲田行進曲2000、クサナギツヨシのヤスは、強く、たくましく、怖ろしかった。
しかも、後半ではなく、前半から。
かわいいヤスが内からあふれ出る人間の根元的な意識に押し流されて狂気に走るのではなく「もともと一番怖ろしい人物」がヤスだった。
怒り狂い、殴り蹴る言動が怖いのではなく、存在そのものの怖さ。つかさんが「クサナギツヨシの中には魔物がいる」と言ったけれど、内なるではなく、あの人そのものが魔物なのではないかと思うほど、わたしは怖かった。もちろん、随所で爆笑し、止まらぬ涙を流したけれど、笑いながら、泣きながらも怖かった。

だからもちろん小夏を責めに責める場面は、まばたきもできないほど。あの、顔を蹴るシーンの怖ろしさ。弟・信一郎への怒りは、台本中最も根元的な、人間すべてが共有できる怒りです。その怒りのまま、妊婦の顔を蹴る。「殺さないで!」と叫ぶ女房の顔を蹴る。

去年は純粋な魂のぶつかり合いを見た、まったく同じシーン、同じセリフに、今年はエクソシストを見ました。小夏は、最後の正義の味方。魔物に腹を蹴られ、顔を蹴られ、殴られ、引きずり回され、嬲られてボロボロになって、しかし最後の最後まで突っ張って頑張って「命懸け」の大逆転で魔物を討つ。

「マコト、なぜ泣くの。君は翼持つ天使じゃないか」

小夏に討たれ、身体を乗っ取られていた魔物を昇華されて抜け殻となったヤスは、異様に美しかった。去年のヤスは、このシーンで人間から人間でないものになったように感じました。しかし今年は、魔物から人間に戻ったのだと思えてならないのです。

どうしてつかさんは、今年の蒲田をこのような台本にしたのでしょう。いえ、こうなってしまったのでしょう。役者に書かされたから?

だとしたら、やはりクサナギツヨシは魔物です。

そしてこの蒲田は、怖ろしく魅力的でした。3人が3人とも。千秋楽まで、この人たちはどんなふうにせめぎあってゆくのでしょうか。特に、わたしたちの研究課題であるクサナギツヨシという魔物は。

松本さんが見た16日夜はどんな舞台だったのでしょう?


6,00/01/17(月)12:37:10,追伸/川本

正直言って、上の発言は「考えすぎ。気の迷いだよ」と松本さんや他の誰かに否定して欲しいです(笑)。


7,00/01/18(火)01:20:22,「クサナギ探しの旅」、先が長そうです/松本

※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。


川本さま

再演を見て、まず最初に出た言葉、「す、すごい」

結局「すごい」に逆戻りしている自分が少し情けなく、でもほんとに逆戻りしてるのかといえば実はそうじゃなく、「すごい」という言葉を両手に抱えたまま、まったく知らない場所に放り出された感じです。ここはどこなの、クサナギツヨシって何者なの?

川本さんが書かれているとおり、ストーリーはぐっとシンプルになりました。もちろん、大爆笑、拍手の嵐のシーンはまだまだたくさん残ってはいるのですが、銀ちゃん、小夏、ヤスをつなぐ線は、とてもわかりやすくなっています。

でもそれなのに、3人の心模様は前よりずっと、痛み、ねじくれているように思えました。

錦織さんの銀ちゃんはずっと残酷に、でもそれなのに、なぜか去年にくらべてずっとずっと「銀ちゃんのピュアな魂」を感じます。

小西さんの小夏は、傷つき、痛めつけられ、でも銀ちゃんへの愛も、ヤスへの愛も、去年にくらべてずっとずっと太い線を描いています。

そしてクサナギさんのヤス。

今回の「蒲田行進曲」は、1年の間に、脚本家の、役者の、そして観客の、前回の公演への思い、熱にあたためられて、発酵しはじめているような気がします。だから、ほんの少しだけ、腐敗臭がする。

でも、その腐敗臭は決して「腐っているから」出ているのではありません。このにおいがあるから、芝居に、色や味がついてる。そのにおいによって、芝居に「大人の味」がつくのです。

そして、そのわずかについたにおいを一番感じたのは、クサナギツヨシのヤスからでした。

ヤスはもう、純粋な、無垢なヤスではありませんでした。去年わたしが一番感じた、ヤスの「透明感」はどこにもありませんでした。これを研究の統一テーマにしようと思ってたのにどうしてくれるの(笑)。

ヤスは、前よりもっと深い、過酷な場所に自分を追いこんでいきます。表情を、動きを、そしておどろいたことに声音まで完璧に変えながら、自分の悲しみを、怒りを表現していきます。このまま、前の場所に着地できないんじゃないかと思うくらい、深く、深く、落ちていきます。

階段落ちのそのときには、修羅の顔で、銀ちゃんに切りかかっていきます。でもそれは、銀ちゃんに向けられているのでも、小夏に向けられているのでもなく、自分の中の悪魔、邪悪との最後の戦いの姿だと、わたしは思いたい。

そして、ヤスはやっぱりあの場所に着地するのです。「そうだ、俺はオヤジになるんだ」再生への希望を込めて、最後の最後に笑顔で立ち上がります。生まれたばかりの「自分の子供」を抱くために。「灯りのついた」自分の部屋に、今度は3人で、戻るために。

クサナギツヨシは、やっぱり「すごい」役者です。この一年に、いったい何が起きたのか、と思わせるような役者です。

このすごさを、どうしても、つかまえてみたいです。・・・・・・一からやり直しかも(笑)。


8,00/01/18(火)12:28:08,ああ、そうか!/川本

※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。


松本さま

そうか!
わたしはそれを「怖さ」だと感じてしまったのかもしれません。
腐敗臭。
大人の味。
その、もっとも強い匂いを放っていたのが、ヤスだったから。

今回、小夏の強さにかなり驚きました。前回のヤスは、自分で自分を救って解放させたけれど、今回は小夏によってエクソシストしてもらうことでなんとか救われるのではないか、なんて思うほどに。

でもやはり、ヤスは自分で立ち直っていくのですね。ヤスを立ち直らせるのは、常にともにあるクサナギツヨシでもあるわけで、うーん、ということは、ヤスとクサナギは修羅の地獄に足を踏み入れたのでしょうか。

「俺、銀ちゃんだーいすき!」

の声の強さ、放つ輝きが、去年より数倍強くなってると感じたのもそのせいでしょうか。
昨年のヤスは、銀ちゃんに斬られる前に昇華していたけれど、今年のヤスは銀ちゃんに斬られることで昇華して行くのでしょうか。

ああ、その方がいい! 

わたしも去年、微笑んで銀ちゃんに斬られにゆくヤスに感動しましたが、いやあ、修羅の方がいい。内なる修羅を斬るために、銀ちゃんに斬って貰うために、かかってゆく。掲示板にびすこさんが書いてくれた「笑う鬼」。ゾクゾクします。楽しみです。

冒頭、いきなりひょこひょこ出てくるクサナギに拍手し、バック転で登場する錦織さんに拍手し、銀ちゃんと小夏の仮面舞踏会デュエットに盛り上がる。去年とは比べものにならぬほど「ジャニーズが出てる芝居だよ」という色を濃く映しています。

初めてこのオープニングを見たとき、これはつかこうへいの自信であろう、と思いました。去年は極力ジャニーズ色、アイドル色を消した作りだった。だからこそ、“君だけに”のシーンで驚きと喜びの笑いが起こり、かえってそれがある種の切なさを醸し出してはいたけれど、今年の“君だけに”で笑う観客は、いない。ただ哀しく切なく、たまらない。

「お前らと、俺や剛との違いはなんだ」のくだりは、あの場の誰にとっても血の出るような痛みを伴うシーンですが、そこでも思いっきり、アイドルとしてスターになった主演ふたりの位置を観客に確認させている。誰もが知ってるテレビでおなじみのアイドルスターが銀ちゃんとヤスをやってます、と知らせてる。

本来ならそれを忘れて見てください、と言うべき所、堂々と突きつけてきたということは、よほど自信があるのだろうと思いました。そして、悔しいことにたしかにすごかった。

そのキーワードのひとつが「大人の味」なのかも。うん、なるほど。

ああ、見た人の声がたくさん聞きたい! どんな意見でもどんな感想でも、どんどん聞きたい!

>・・・一からやりなおしかも(笑)。

びすこさんも掲示板で

>いままで語ってきたのはウソでないけれど、
>それもう“過去”のことで、“いま”のクサナギでない気がします

とお書きになっていましたが、ホントホント。とことんやりましょう。
これからまた捕まえてゆきましょう。
敵にとって不足なし、クサナギツヨシ(笑)。


9,00/01/24(月)21:11:36,明日は大阪公演千秋楽。/松本

※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。

川本さま

明日は、「蒲田行進曲」大阪公演千秋楽ですね。
水平飛行に入ったのかな、って思ったらもう千秋楽・・・・早いなぁ。
まぁ、「水平飛行」といっても、相当高いところを飛んでいるようですから、そこに行くまでに、かなりの推進力が必要だったのだろうな、って思います。

わたしが公演を観てから、すでに一週間が経ちました。

演劇評論家の方は、芝居を見てすぐには評論を書かない、っていうようなこと、読んだことがあります。しばらく時間をおいてから、自分の中に何が残っているのかを見極めてから書く、って。

わたしはもちろんただの素人なので、観たらすぐに書いてしまう、書かずにはいられない、っていう感じだったのですが、一週間経って、自分の中に何が残っているかなぁ、ってちょっと考えてみました。

すぐに思い浮かぶのは、「とても楽しそうだったクサナギツヨシ」っていうことです。BBSでも以前ご意見が出ていましたが、クサナギツヨシは、セリフを歌い、演技を踊っていました。それは去年の東京公演後半くらいからわたしも感じていたことなのですが、今回の大阪では、もっとはっきりしていました。

銀ちゃんに殴られても、小夏を蹴っても、生き生きとしていたクサナギ。

これはもちろん、殴られたり蹴ったりすることが楽しそう、というわけではなくて、彼が舞台の上にいて、ヤスを演じていることそのものが、彼にとってとても楽しいことなんだろうな、っていう感じです。

でも、楽しい、っていうのは「気楽」というのとはぜんぜん違います。

先週の金曜日、テレビの「笑っていいとも!」を観ました。普段はなかなか見られないのですが、やっぱり公演中は、「クサナギはどうなっているのだろう」っていうのが気になります。

全部は見られなかったのですが、まず、画面に映った彼を見て、驚きました。

雰囲気が、違う。

まず、声が前にでていました。彼のお腹から出て、わたしのお腹に響いてくるような声。

そしてなんと言っても、彼の目です。そうです、その目です。
彼がいつもの柔らかな笑顔を向けても、その目の強いひかりが、消えない。

何て表現したらいいのか・・・・しぼって、しぼって、自分を極限まで追い込んでリングに立っている孤独なボクサー、ちょっと陳腐だけどそんな感じがしました。

舞台の上のクサナギが、テレビでもぽろぽろ漏れている。

テレビって、どんなにくせのある人でも、いつのまにかやわらかくしてしまう効果があるような気がします。それなのに、止まっていない、止められない、強い目のひかり。

今年のクサナギは、なんだかとても「男」だと思います。去年のヤスと、一番違うところはそこのような気がします。男として、銀ちゃんを慕い、男として、小夏を愛するヤス。

そこには、「メッセンジャー」の鈴木宏法とはまたちょっと違った「男っぽさ」があります。いや、「男っぽさ」というより「人間くささ」なのかもしれません。

川本さんは、明日の千秋楽に行かれるのですよね?
ぜひ、感想を教えてください。

去年、「猫助日記」に、北区つかこうへい劇団の鈴木祐二さん(監督役)が、「いいカンパニーだ」っておっしゃったということが書いてあり、それがとても嬉しかったのを思い出します。

BBSでのみなさんの感想を読ませていただいたり、公演に行った友人の話などを聞くと、銀ちゃんも、小夏も、そしてヤスも、とてつもないパワーで大阪公演をざくざくと進めているようですよね。

今年の「カンパニー」が、どんな風に大阪公演千秋楽を迎えるのか。

川本さんだけでなく、その場にいられた方の、たくさんの感想、聞きたいです。


10,00/01/29(土)06:18:21,母から息子へのセクハラ/川本

※ネタバレです。
※今年の蒲田を先入観なくご覧になりたい方は、
※どうかお読みにならないでください。


松本さま

お返事が遅くなってすみません。大阪から帰って、かなり長い間ボーッとしておりました。また体調も崩しました。見る前にホテルで倒れ、翌日帰りの新幹線のなかでガクッと悪寒に襲われて、夜は崩れるように眠りました。見るたびにこれでは、東京の楽を打ち上げたとき、どんなことになっているんでしょう。

笑っていいとも!、まったく同感。お返事を書きそびれているうちに一週間たってしまい、また、いいともを見ました。蒲田前と蒲田中のクサナギツヨシ、別人ですね。先週(2月21日)は、前日からの大幅な書き換えがあった当日、しかもクサナギ当人は生放送を終わっての劇場入りですから、早くても6時近くになるでしょう。必然的に、殺気だった緊張感を漂わせてもしかたないだろう、と思いました。しかし、今週もまた、前とは違う人でした。

笑っていいとも!のクサナギツヨシは、あえて心をカラッポにしているように見えます。積極的に前に出ず、アイドルとしてお飾りの位置をキープし続けているように。

ところが、蒲田の公演が始まってからはそれをキープできなくなっていませんか。定位置であるお飾りの場所にはいながら心をカラッポにはできない。今週は先週ほど怖くはなかったけど、やはり男っぽく、人間くさかった。いいともでは今までに見たことがないほど、ものすごくカッコよかった。「メッセンジャー」撮影中も鈴木くんモードでけっこう男っぽくカッコよかったのですが、あれはあくまで表面のかっこよさでした。しゃべるとちゃんと、いつものカラッポ状態。やっぱり今年の蒲田はかなり彼を変えていますね。よっぽど刺激があるんだろうなあ。

ところで大阪楽。「君だけに」のシーンで、蒲田2000ではほとんど消えていた笑い声が上がるなど、楽ならではの異様なテンションにつられた高ぶりが、多少緊張感をそいでいたような気がします。

しかし、そんなこともぶっちぎる勢い。席は比較的後ろの方でしたが、舞台の芝居はきちんとそこまで届いてきて、揺さぶられ、泣かされる。その距離感のなさに感動しました。

書かずにおけないのは小夏のセクハラ! すごいですねー!

「お前、大砲ってなんだよ、こんな……ギンナンじゃねーか、ギンナン!」

昨年は「乳もんでやる」止まりだった小夏からヤスへのセクハラが、爆発的に増えていました。ヤスの胸をまくりあげ、ぺろーんと出したかわいい舌で乳首(実際は胸だが)をなめ、ベルトをゆるめ、ズボンに手を突っ込んで股間をつかみ、ヤス当人が「大砲」と自慢していたその実際のサイズついて“ギンナン、マッシュルーム、マシュマロ、えのき”などと具体的なイメージを伴う呼称をつけて大声で言いふらし、スカートをめくってその中に顔を抱き込み、手をつながせ、一緒に踊らせる。

それも、終始明るく、元気よく。

「これは、母から息子へのセクハラではないか」

と思いました。異性の女から男へのセクハラには見えない。やる方もやられる方も、両方ともイヤらしさが微塵もない。母は優しく、強く、そして黒い闇。小西さんの小夏は、すさまじく“母”でした。そしてクサナギツヨシのヤスは、ここでは母に圧倒される息子です。異性の女だったら、こんなに圧倒されておとなしくしてはいられない。

母は息子が出会う最初の異性です。どうしたって惹かれる。惹かれるが、惹かれてはいけないと逃げる。関係を持ってはいけない、と歯止めがかかる。

あれだけ魔物だ化け物だと言われたヤスが、母には負けています。クサナギツヨシも負けています。最後にスカートをめくってお尻を叩くのが精一杯。

名古屋の初日で、銀ちゃんの造型がほとんど完成したのではないか、という感想を聞きました。となると、もしかしたら蒲田2000後半の課題は、

「ヤスとクサナギツヨシが、母を越えられるかどうか」
「小夏とコニシマナミが、母との同一感から抜け出せるかどうか」

になるかもしれない……なんちゃって(笑)。でもそうすると生身の男と女になってしまって、最後の人間愛への賛歌の部分が消えてしまうかなあ。

つらつらと思うままに書いていたら、またもや長くなってしまいました。ごめんなさい!

名古屋に入った蒲田カンパニーが、ますます緊張感と一体感に満ちたよいカンパニーになっていますように。