「フードファイト第一回 感想」
〜無意味に強いヒーロー〜

T.F



「孤児院の生まれのツヨシが、裏社会の大食い勝負のチャンピオンを演じるらしいよ」
「虎の穴だろそれは」
 と、笑った。それから一ヶ月。
 ようやく、ドラマ「フードファイト」の一回目を見た。

「タイガーマスクやんか」

 と、また、呟いてしまった。
 前の呟きとは意味が違う。

 タイガーマスクはいわずとしれたプロレスマンガの古典だ。原作漫画の連載がアニメの放映と同時期に行われている。いまからもう三十年前の話だ。
 プロレス漫画ではあるが、そのひねりのききようは尋常一様ではなかった。虎の穴という悪役レスラー養成組織と、その裏切り者の戦いという縦軸に、孤児院出身で匿名で寄付を続ける善意の青年という横軸を組み合わせて、リアリティをもたせていた。少なくとも、リアルタイムにテレビに囓りついていた少年たちに「ホンモノっぽい」と思わせるだけの絵柄であり、状況設定をした上での「孤独なヒーロー」であった。

 原作の漫画はいま読んでも面白い。それは三十年前の時間が紙のなかに封印されているからだ。同じドラマを平成十二年にやるとしたら、どうだろう。
 虎の穴という「裏側の組織」は、いつどんな時代にやっても、面白い虚構の仕組みだと思う。だから期待した。
 でも、それを支えるリアリティは、時代時代によって変化しなければならないはずだ。孤児院に新しく転入してきた子供が父親の児童虐待を受けていた。ヒーローもまた、というのが、平成十二年風の味付けなんだとしても、構造は三十年前と変化していないように思う。「タイガーマスクやんか」という呟きはそこから来ている。

 なんだか違うような気がするのは、物語の根幹となる「ヒーローの強さ」もそうだ。タイガーマスクは、訓練で強くなった。私はいまでも鮮明に記憶しているが、タイガーマスクというドラマの中で、もっとも鮮烈な記憶は、虎の穴の訓練シーンだ。世界中から集められた才能のある子供たちが、この世のものとも思えない残虐な訓練で、どんどん命を落としていく。いまなら放送できないでしょう、これは、というようなものだった。
 それだけの犠牲の上に成り立つ強さだった。

 フードファイターの井原満は、なぜ強いのだろう。胃袋というのは鍛えられるのか? そのために、井原満はなにをした? 一回目だからかもしれないが、すべてはまだナゾに包まれている。
 ヒントはいくつかあった。
 医師の如月鋭一は「君はおとうさん、おかあさんを憎んでいるかもしれないが、完璧な肉体をもらっているんだ!」という。
 これが理由だとしたら、すごい。すべてのスポーツ根性ドラマの根幹を揺るがす発言だ。生まれ落ちた肉体、つまり遺伝子さえ強ければ、それだけで無敵のヒーローになれる。こんなのドラマにならないって。
 もうひとつは、井原自身の発言。他人の飯を奪い取ろうとする裕太(孤児)の気持ちを田村麻奈美に語る部分だ。「彼はあの歳で、飢えと闘ってきた。食べても食べても、いま目の前にある食べ物を全部食べ尽くさないと、今度はいつ食べられるかわからないんだ」。これはおそらく自分自身の述懐だろう。裕太はつくし園に来た頃の満とそっくりだ、という伏線が何度も出てくる。

 飢えと頑健な肉体。
 そこから生まれる食べっぷりを、草なぎ剛はよく演じていると思う。
 ただ、その姿は人間には思えない。ロボットである。チャーハンを10杯食べても、15杯食べても、そのペースは淡々として変わらず、表情も変わらない。
 ぐっと嫌な呻きを発して、スプーンの動きを止めた市川染五郎に対し、「素人にしてはよく食べた」と声をかけて、席を立つ。

 これは演出としては、どうなの?

 さしたる理由もなく、無敵のヒーローが、弱い敵を叩きつぶす。
 これのどこが面白いのでしょうか。私は、見ていて困りました。

「とにかくもう、むちゃくちゃに強いんだもんね」
 ということを表現するためかどうか、第一回目のテーマは「八百長」だった。もうおまえは「勝つのをやめろ」というのが主催者側の意思。わざと負ければ、孤児で学歴もないおまえを一流食品会社の正社員にしてやる、と。うーん。この感覚も、どうでしょう。二十年前? 十年前? 銀行だって潰れるご時世に「正社員」がなんぼのものなの?
 勝ったら、三百万円。満はこれを全額つくし園に寄付する。
 しかし、どうもつくし園はこの寄付がないと潰れるというほど困ってはいないようだ。負けても勝っても、世の中に与える影響はない。ものすごく狭い世界で、さしたる動機もなく、登場人物が右往左往している。
 毎回のクライマックスとなるフードファイトも、満が勝つ気持ちなれば、簡単に勝てる勝負でしかないようだ。だって、いくら食べても苦しくもなんともないなら、勝負になんかならないでしょう。痛覚のない人間が痛さ比べをしているようなものだから。

 草なぎ剛は、外見から想像されるようなフワフワした人ではなく、非常に繊細で緻密な演技者である。そのことはもう、蒲田行進曲への二度にわたる主演ではっきりしている。
 役がはっきりしていれば、どこまでも役の心理に近づいていけるし、世界の大きさの表現もできる人だ。その草なぎが、このドラマでは、ずいぶん戸惑っているように思える。
 なぜ、自分は食べることができるのか。
 自分はなにをしたいのか。
 自分はなにを守りたいのか。
 そういった基本線がはっきりしないまま、あいまいな表情で中央に立っている。

 大食い勝負は意外と面白くない。だって、それは嘘だから。世の中には、マラソンやサッカーのようにホントの勝負がたくさんあり、それは中継という形で経過のすべてを見ることができる。大食い勝負は嘘であり、しかも、経過を省略して見せている。

 草なぎの目が光らなければこのドラマは失敗だ。そして、草なぎがほんとにこの世界を生きることができるかどうかは、台本にかかっている。
 土曜九時は子供枠だのなんだのくだらないことを言ってないで、早く草なぎの目を光らせる切実なものを見つけてほしい。



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