「フードファイト第一回 を見て」
〜もう一歩先の可能性〜
MH
小さい頃の、幼い頃の、いっぱいいっぱいの記録というものに振り返る時間があります。
それは小さい頃なくし、いつの間にか見失ってしまった宝物、いつの間にか、探すことすら見失ってしまったなくしもの、そんなものにふと触れる瞬間といってもいいでしょう。
それは記憶の隅でいつまでも輝き続けるがゆえに、その輝きが懐かしく、また遠く離れた何億光年もの前の輝きを目にする時の切なさにも似ているかもしれません。
星は何億年も前に輝き、その輝きはこの地球が生まれる以前の前かもしれないのですが、その一瞬をこの目にするものです。
そう考えるならば人間は人と接する時、本当に真実を見つめているのかと思うのです。
たとえば、光の速度、何億年も前に輝いた星の光を感じるのと同じように、いま、目の前で輝き続けるあなたは、ほんの0.00000何秒か前に見せた笑顔をそこに見せて微笑んでいるのかもしれません。人は光というものを認識するものなのですから。
だから人は人と触れ合うことを求めその温もりを求めていくものだと思うのです。
触れ合った手と手は絶対的な真実をつきつけてくるのです。
真実は触れ合う中、その温もりの中にあるものです。体温で感じるものです。
でなければ人は不安で、いつまでもその無限大に0コンマの続くほんの前の瞬間の人間との接触を信じ続けなければならないのですから。
その体温のありかになにを見るか、その体温を求めうる存在を探し続けることが生きるという希望につながるのであろうと思うのです。
その体温には絶対的な真実がなければならないのでしょう。
そしてその真実を見失った時、人は人として生きるなにかを見失うに違いないのです。
宮沢賢治という作家は『雨にも負けず』『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』などの作品を提出し、世に名を残す作家となりました。
彼の作品の中に『よだかの星』という短編があります。醜く育ったよだかは、本物の鷹からも同じ『タカ』の名前を名乗ることをいさめられ、羽虫を食べるごとにこんな僕のために命を失う羽虫がいるんだと後悔します。そしてこの世からさることを決意し、お日様やお星様に頼みにいくのです。悲しみをいっぱいに抱えながら、よだかは星になります。いつまでもいつまでも夜空に輝き続けます。
その輝きと熱さは、よだかの流した涙は、星は、真実の光となり、何十年も、何百年も、何千年も輝き光を送り続けるに違いないのです。
よだかはよだかで星の光となり、その体温という真実を、必死になって伝え続けようとします。 触れ合うことのないものではあるけれど、実際に手と手の温もり感じあえるものではないけれど、必死にその体温を伝え続けるのです。
光輝かせ続けることしかできない小さな星ですけど、必死になってそのメッセージを真実を伝え続けようとするのです。
その光のあたたかさ、まぶしさに、クナギツヨシのぬくもりを見つけることがあります。
クサナギツヨシという存在の価値観は、あまりにも多くの誤解と偏見の中で生まれたきたのではないかと思う時があります。
それは、多くの人々が彼のもつ個性の部分、画面からあふれてくる性格の異質な部分に、彼の過去であり、彼の生きてきた道であり、彼の潜在的な悲哀を重ねすぎている部分、またそこでドラマを作っていこうとしすぎている部分が多分に見えすぎているように思えてならないからです。
それは一つの感動や、一つのドラマのあり方としての彼を生み出し、彼という作品を作っていけるにすぎない現象であるのは間違いないでしょう。
そのフィルターのもう一歩先の彼の姿があるであろうし、そして彼もそこをついてくることは望んでいてもその表現の停滞にとどまることをよしとしないであろうと思うのです。
フィルターはいつまでもフィルターでしかありえず、その孤独や悲しみは一人で抱えぶつけていく問題であり、それが聴衆に認められることで感動を呼び起こすことは、一つの手段でありながらそれ以上のなにものでもなく、なにかではありえないのかもしれません。彼自身がなによりそのことに気づいているからこそ、彼を要求しようとする態度のすべてが空回りしていくのです。自然であること、生きていくこと、大きく息を吸い、大きく前を見つめる力を持つことに無意識に気づいている彼の存在を彼をそういう存在に描こうとした時にすべてが崩れていくのです。
ならばなにをという疑問はえんえんに続くはずです。
ただ、それはよだかの星のようにただ輝きたい、輝くことで希望も、自分が傷つけてきたことの罪もそのすべての力になれるなにかになれることを望んでいるというそのことなのかもしれません。
クサナギツヨシとは、その触れ合うことのできない星だけど、希望与えつづけ、ともすれば一番近い星の光を、真実をつきつけてくる存在なのかもしれません。
人は必要として生まれてきたもので、その誕生におめでとうの言葉をかけられて生まれてきたものです。たとえ、どんな生まれであり、どんな孤独を背負い、どんな傷つき方をしてきたとしても生まれてきたこと、生きていることを必要とされているはずのものなのです。
悲観することがあれど、それを悲観から乗り越えていく力を見せていかなければならないのだと思うのです。
力をもっている存在であれ、それを悲観の中の文学、枠に納まった文学の中で表現できる可能な限りの希望を提示しているのが、いまのクサナギツヨシに要求されている姿に思えてならないのです。しかし、彼の文学はそれをそれとしない大きな可能性に向かう力を持っているに違いないのです。
この『フードファイト』という作品には、彼の彼であろうという見方が、ごく当たり前のように描かれていたように思えてならない。彼の文学からは当然のように彼という存在、この作品の描こうという希望の中で、希望が提示され感動を呼び起こすことがありえるに違いないでしょう。
しかし、彼の存在のありかはここに、このあり方にあるはずはないのです。
彼は彼としその痛みや弱さ、彼のこうであったろうという過去の部分をもう必要としていないのではないのかと思えてならないのです。
そこをいつまでもこだわり続ける人々の中で、彼はこだわられ続けてはならないのだと思うのです。そのもう一歩先の可能性を望みながらこの一回目を見終えたのは事実です。
よだかはいつまでも激しく熱く燃え続けるはずです。
宮沢賢治はその作の中で、
『そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでも燃えつづけました。
今でも燃えています。』
としめくくります。
彼の存在の燃え続ける可能性の永遠のためにさらなるなにかを願うものです。
星になり、いつまでもかわらない、百年前の人も、千年前の人も、百万年前の人も、その輝きを見ることだけで楽しいと言えるように、輝き続けることを望むのです。
ファイトははてなく続くものです。これからの展開が星となる瞬間を期待しております。