『僕の生きる道』総論

〜「『僕の生きる道』に見るクサナギツヨシの内なるエネルギー」〜

レイチェルさん


こんにちは。「僕の生きる道」は、脚本、演出の素晴らしさとともに、役者クサナギツヨシの本領が、ようやく発揮できた作品だったと思います。湯山さんが第一話の感想で、「やっと会えたね」と書いていらっしゃいましたが、私も「役者クサナギツヨシが力量を、じわじわ発揮できる作品に出逢えた」感がありました。

私はこれまでも、クサナギさんの作品はたくさん見てきました。「結婚しようよ」「おいしい関係」「いいひと」「成田離婚」「じんべい」「フードファイト」「スタアの恋」などなど。そうそう、ボクサーで殴られていた役もありましたよね。「家なき子」だったでしょうか。(間違っていたらごめんなさい。)その当時のことを思うと、「よくぞ。ここまで演ってくれる役者になって。」と、頼もしい大人に成長した我が子を見るような気持ちになります。(笑)

でも、正直なところ、今回の「僕の生きる道」を見るまでは、クサナギさんを役者として見たことはありませんでした。「SMAPのメンバーだから、視聴率が取れるのだろう。」くらいにしか思っていませんでした。事実、私もドラマ自体が大好きだったこと、クサナギさんがSMAPのメンバーだったこと、そしてドラマの中のクサナギさんが嫌いではなかった、目障りでなかったから(重ね重ね、ごめんなさい。)、見ていました。

でも今回、「僕の生きる道」を見て、ストーリーがじわじわ心に入り込んできて、いつの間にか私の中に住み着いてしまったように、役者クサナギツヨシの不思議な魅力、力量にも気づき、さらに、このサイトにお邪魔したおかげで、私も「役者クサナギツヨシ」について、書いてみたくなりました。


つたない文章で、私の思い込みもたくさんあると思いますが、どうぞ、ご勘弁くださ
い。


今回の「僕の生きる道」を見て、「クサナギ君も、いい役者になったなー。」と思いました。でも「役者クサナギツヨシの何がいいんだろう? 何が魅力なんだろう?」と問われても、うまく言えません。皆さんもおっしゃっていることですが、うまく言えないのに、なぜか気にかかる。架空の人物を、実在する人物のように見せてしまう役者クサナギツヨシの力量って、いったい、何なのでしょうか。


クサナギさんについては、どこにでもいそうな普通の青年、自己主張をあまりせず、控えめと言う印象があります。SMAPの中でも、そして芸能界の中でも、それほど個性は強くありませんし、本人も、「僕は自分で考えたことを実行するよりも、人に言われたことをした方がうまくいくことが多い。」と言っていたと、何かで読んだことがあります。


人に注目してもらうこと、他の人とは違う魅力や個性をもっていることが重要なショービジネスの業界で、どこにでもいそうな普通っぽさ、自己主張をしない、自分の個性を出さない控えめさと言うのは、弱点のように見えます。


でも私は、ひょっとすると、これが役者クサナギツヨシを、少しずつ、でも着実にいい役者に成長させている要因ではないかなと思いました。


つまり、


1)
一見、普通っぽく見えるから、設定や共演者によって、いろんな役ができると言うか、料理の仕方でいろんな味が出せる(役を演じられる)役者なのではないかなと。個性の強い役者さんだと、イメージがあるから「その風貌で、その役はないよ。」みたいなことがあるけど、一見、普通と言うのは案外、料理次第で味付けがしやすいのかもしれないなと。そして本人は、一見、普通に見えるけど、本当は普通の人ではなく、多くの時間とエネルギーを費やして、自分から一生懸命、役に近づこうとしてきたのではないでしょうか。


私は先ほど、役者クサナギツヨシ本人には興味がなかったけど、嫌いでなかったから、目障りでなかったから、たくさんの出演作品を見てきたと書きました。
振り返ってみると、どの作品でも、役者クサナギツヨシは一生懸命に、真摯に役に取り組んでいました。

「え、こんな役もやるの? これドラマになるの?」

と思った役も、見終わってみると、結構ほほえましかったり、いじらしかったり、様になっていたり、「こういうのもありかな。」と思わせてくれるものでした。


2)
それに「嫌いではない、目障りでない」って、役者を長く続けていく上では、結構重要かもしれません。「嫌いではない、目障りでない」と言うのは私の表現のまずさからくるもので、気を悪くされる方がいらっしゃっいましたら、申し訳ありません。


つまり、役柄の人物が、まるで実在する人物であるかのように、鮮明に心のひだに残るので、演じている役者クサナギツヨシの力量に気づくまでに、時間がかかるのです。


役者クサナギツヨシは、役者本人の個性で見せる役者ではなく、架空の人物が、見た人の心の中にいつの間にか住み着いてしまうような芝居をする役者だと思います。作品の中で、役者が見えてしまうのではなく、まず初めに、架空の人物がまるで実在する人物であるかのように、見た人の心にじわじわっと入り込んできて、なかなか離れず、少し遅れてから「そうだ。演じているクサナギツヨシってなかなかいいじゃん。」と気づくのです。(鈍いのは、私だけかもしれませんが。笑)

すると、次からは気になって、「今度はどんな人物を、見せてくれるのかな?」と思い、また役者クサナギを見たくなる。私もしてやられましたが(笑)、クサナギツヨシはそういう役者だと思います。だから、役者クサナギはゆっくりと、でも着実に成長していく役者だと思います。


3)
そして、役者クサナギツヨシは自分だけが輝くのではなく、周りの役者さんたちをも輝かせる役者であるということ。自分だけが輝くのではなく、周りの共演者も魅力的に輝かせ、その人たちとのコラボレーションから生まれる、不思議な柔らかい空気感。見ている人は、この何とも不思議な柔らかい空気感、雰囲気にホッとして、癒されたり、安心したり、柔らかい幸福感に包まれるんだと思います。


「役者クサナギツヨシは、共演した女優を魅力的に見せるから、共演したいと思っている女優さんはいっぱいいるはずだ。」と、どなたかが書いていらっしゃいましたが、まさにその通りですね。「僕の生きる道」で共演した矢田亜希子さんも、大人の女性の優しさと強さ、切なさといじらしさを魅力的に演じて、演技の幅も広がったと思いますし、ファン層も増えたのではないでしょうか。


4)
そして自己主張も控えめで、人の言うことを聞こうとする点も、役者と言う共同作業の仕事では、結構、長所ではないでしょうか。人の言うことを聞こうとする姿勢は、共同作業の仕事では絶対に必要な資質ですし、人に自分をゆだねることができるって、人を信頼し、なおかつ、それでも流されないしなやかな自分と、最終的には自分で責任を持つ覚悟がなければできないことです。制作者、脚本家、監督、衣装さん、小道具さんなど、たくさんの人たちの考えや思いや熱意を全て引き受けて、消化して、凝縮して、架空の人物を体現するのは自分ですから。


つまり、控えめだから、自分がないのではなく、人の言うことを受け入れても、流されないしなやかな自分と、最終的に自分の仕事をきちっとやる覚悟を持っていると言うことなのかなと。


5)
役者クサナギツヨシは、役作りをすると言うより、まず自分を脇へどけて、その人になりきろうとするのではないでしょうか。もちろん、なり切れない部分もあるでしょうけど、いろんな人に聞いたりして、できるだけ自分から、その人物が考えていることや気持ちに近づいていこうとする役者なのではないでしょうか。


椎名桔平さんが、「役者をやっていると、役の人物になってしまったような至福の瞬間がある。いつもではないけど、たま−にそういう瞬間がある。」と言っていました。彼は、それがあるから、役者は止められないみたいなことを言っていました。たぶん、そういう時って、演じている本人にも演じている感覚はないのでしょう。細胞の一つ一つ、感覚そのものが、その役柄の人格になってしまったような感覚なのでしょう。台詞や動きにしても、あらかじめ決められた言葉や動きをしているのではなく、自然にそういう言葉を発してしまった、そう動いてしまったという感覚なのでしょう。


クサナギツヨシが今までに、そういう瞬間を経験したかどうかはわかりません。でも彼がいい作品、いい演出家と出会い、自分でも気づかなかった意外な一面をうまく引き出してもらい、今まで知らなかった自分に出会ったり、演じている人物そのものになってしまったような瞬間を経験したら、ますます役者を止められないだろうなと、そんなことを思いました。これは私の想像です。自分勝手な想像です。そこまでいくと、役は与えられたものではなく、自分から近づいて、自分が魂を込めてこそ、味わえる役者の醍醐味なのでしょう。私は役者ではないので、あくまでも想像ですが、そんな気がします。


生放送が苦手で、素の自分を出したがらないクサナギツヨシ。演じている架空の人物が実在する人物であるかのように見えてしまうから、よけい、役者クサナギツヨシのどこから、そんな魅力、力量、エネルギーが出てくるのかと、見ている私たちは不思議がり、知りたがり、解明しようとする。


でも、本人は素のクサナギツヨシを出そうとも思っていないし、出す必要もないと思っているのかもしれません。自分を見続けて、応援して、感動してくれた人たちへの感謝は、これからも精一杯やって、もっともっといいものを作ることで、伝えようとしているのでしょう。


SMAPと言う、誰もが注目する一大産業ともいえるグループの中にいて、自らもアイドルと名乗りながら、彼自身は流されず、おごらず、高ぶらず、へこたれず、弱音も吐かず、たくさんの人たちとともに、たくさんの人たちの考えや思いや熱意を受け止めて、架空の人物に命を吹き込む役者の仕事に、これまでも精一杯取り組んできたし、これからも取り組んでいく覚悟ができているのでしょう。


もしかしたら、外見の普通っぽさ、優しい癒し系のイメージにだまされているのは、私たちかもしれません。役者クサナギツヨシの中では、静かに、でも着実に、貪欲に、「弱音を吐かず、諦めず、しなやかに、役者をやれるところまでやってみよう!」と言う覚悟ができているのでしょう。


余命一年の青年と言う、想像もつかない、とんでもない役をあれほど見事に見せつけられると、何も言えなくなりますね。まさに、役者として架空の人物に魂を込めたと言うか、役に対するこわいほどの気迫を、特に病院から抜け出して、みどりに支えられながら、合唱コンクール会場に向かって歩いている、あの細く痩せた身体と、力のない目から感じました。


「あそこまで、やるものなのか。」と思いました。もちろん、仕事ですし、いろんな人の期待やたくさんの人の目が注がれているのですから、「できる限りのことをするのがプロ」でしょうけど、そこまでやるのはやはり、役に対する本人の気迫、熱意、「秀雄に命を吹き込みたい」と言う本人の意志だと思います。


湯山さんは、最終回の感想の最後に、「次はもっともっと、上を。私は欲深いです。」と書いていらっしゃいます。それでいいのだと思います。役者クサナギツヨシも、きっとそのつもりでいるはずです。そうやって、自分を応援し、見続けてくれる人がいることを、彼もわかっているはずですから。個人的に知り合っているわけではないけれど、これも、作品の中で息づいている人物を通しての、人と人の出会いというか、つながりで、同時代を生きている人間同士の魂の共鳴だと思います。


私も湯山さんのUPに心を動かされて、ここまで書き続けてしまいました。夕べから、一睡もせず、家事もせず、パジャマも着替えず、食事もほとんどとらず、夕方になってしまいましたが、これが、今日の私の「今を精一杯生きる」です。


最後までお読みくださって、ありがとうございました。



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