『僕の生きる道』第十話

〜「46分間の1年」〜

湯山きょう子

「むかーしむかし、あるところに、中村秀雄という少年がいました………」
「二人はこれからも、何回もキスをするでしょう」
「するでしょう」

かわいい二人のかわいい寝物語は、まるで、子どもに聞かせるお話のようです。何度も何度も繰り返しお話を聞いているうちに、子どもは交互に話を続けてゆくことを求めることがあります。二人の「お話」も、やさしく互いに響き合う、言葉と言葉でした。本当に愛する人と、心も身体も寄り添って眠る。これ以上の幸せがあるでしょうか。

ただひとつ、二人の「お話」が昔話と違うのは、「するでしょう」で終わることです。

ふつうのお話は、たいていこんな風に終わります。

「そして二人は、永遠に幸せに暮らしました」
「Then, they lived hapilly ever after」

それからも永遠に、幸せに、暮らしました。めでたしめでたし。いつか幼い自分も、王子さまのように、王女さまのように、物語の主人公のように幸せをつかみ、永遠に愛し合う人を得て、そして、“死”などという恐ろしいものは、まるで存在しないかのごとく。こうして子どもは安心して眠りにつきます。

秀雄とみどりのお話は、その結末に至りません。でも、「するでしょう」「するでしょう」と繰り返すキスをする日々は、今、ふたりの中にだけ、確実に存在するのです。たとえそれが、一分、一秒後に終わるとしても。

「先生、1年って、28年より長いですよね」

秀雄が言っていた、28年より長い1年の大部分を、十話のたった一回で描いてしまう。それだけでわたしは胸が詰まりました。

春、六月の衣替え、あじさいの梅雨、七夕の夏の始まり、ひまわりと蝉時雨とスイカの真夏、紅葉の秋。

そして、二人で肉まんをほうばりながら歩く、再び、再び巡ってきた、冬。

たったそれだけで「28年より長い1年」の大部分を描いてしまいました。それほど、きっとそれほど、秀雄にとって、みどりにとって、夢のように長く、夢のように短い日々だったでしょう。活性化された秀雄の身体は、当初の予想を裏切り、教壇に立ち、合唱の指揮をする体力を保ち続けました。

「1年って、28年より長いですよね」

生徒たちは、この言葉を知りません。でも「一冊の本」の話は栞が覚えていました。忘れていた生徒たちも、思い出しました。「もうすぐ死ぬ中村への同情」で頑張るのではない。「今、自分ができることをやる、挑戦する」決意を固めました。生物の授業も、きちんと聴くようになりました。もともとが優等生たちです。受験勉強だけで大変大変と言うだけではなく、合唱と両立できるかもしれない。模試で全員A判定をとるという「引き替えの契約」に、全員が心の中で判を押しました。かたくなな吉田以外は。

どうしてそんなに、みんな歌いたいのか。なぜ、歌うのか。「中村への同情でなく」。吉田の疑問に、久保先生が答えてくれました。

中村には、自分が苦しんでいるように見えたのか? 悩んでいるように見えたのか? どうしてそれがわかったんだろう? 自分の気持ちなんか誰にもわからないと思っていたのに。

……わかりますよね、普通。毎日身近で見ていれば。

でも「官僚にならなきゃ」いけない吉田は、今までそんな風に見て、しかも、それを心配してもらったことがなかったのでしょう。親からも、親戚からも、もちろんクラスメートからも。田中に成績が下がってるからイライラしてるんだろう、と指摘されたとき、吉田は激昂しました。そこまで人間不信に陥っていたのですね。

最終回で、最後まで結果がわからなかった吉田のことを考えると、目指していたのは東大ではないのかもしれませんが、「官僚=東大卒」という常套図式で話を進めます。

小さい頃から「東大に入って官僚になるのが当然」という方向で育てられた吉田。「あなたのためなのよ」と言われれば、そう信じるでしょう。小学校、中学校程度は軽く一番で通過してきたかもしれません。でも、進学校の高校3年ともなれば、周りも同じような連中なのですから、楽勝で一番、というわけにはいきません。彼は、前回の模試の結果を見て、ひどく動揺していました。「東大に入り、官僚になるのが当然」の家系で、もし東大に落ちたら。ここ一番に弱い、という自分の弱点を知っているからこそ。

TEAMの時もそうですが、優等生の家庭ほど、父親が登場しない。影としてすら。今回も同じです。

わたしの周囲で見る「優等生」の家庭では、父親はいい学校を出て一流の職業に就き、出世も順調。仕事一筋。養育も教育も母親任せ。任せる、というより「成績優秀、一流企業か官僚になって出世するのが当たり前。母親の仕事は、そう育てることで、それが母親の義務である。義務を果たせ。俺は社会の役に立つ、立派で大変な仕事をしているのだから、それ以外のことは全部母親の義務だ」と“命じている”タイプが圧倒的多数です。そして、母親はそんな夫を憎んでいるケースがさらにその中で多数を占めます。母親は、社会的に成功している部分だけ夫を評価し、人間としては憎んでいる。

父親の出世が今ひとつだったりすると、さらに大変なことになります。子どもに愚痴る父親の悪口は、それはもう熾烈を極めます。だから、人生のすべてをかけて子どもに期待する。子どもと一緒に「お父さんを見返してやりましょう」と、さらにさらに決意を固くする。

夫が憎いのなら、まったく違う人間に育てよう、と考えそうですが、当人も「一流」が一番だと思っている妻の場合、夫の命令を見事に果たしてやろうじゃないの、となってしまうんですね。夫よりずっと「立派な」人間に育てて見返してやる。それが彼女の夫への復讐であり、そして彼女の「自己価値観」なのです。

かわいそうなのは、それを共有させられる子どもです。優等生の中には、日々「父親が嫌い」な子供が増えています。それはそうでしょう。母親から毎日毎日夫がどんなに嫌いか、繰り返し聞かされるのですから。幼い頃は、そんな母に同情し、母と共に父親を憎み、母のために頑張ろう、と思うでしょう。そのまま順調に進めば問題は起きません。いや、社会人として、異様にゆがんだ人にはなってしまいますが、当人はあまり、ストレスを感じないでしょう。そして母の期待に応えたとき、父親に復讐できたと一緒に喜ぶでしょう。

しかし、母子手を携えて描いたとおりの「確定した未来」が来なかったら?

こういう子どもが挫折したときのショックは、常人には計り知れないものがあります。「ここ一番に弱い」ケースはさまざまですが「挫折をしてはいけない状況のもとで育ち、今まで一度も大きな挫折をしていない人」に起こりやすいのは確かです。

中島義道の『ひとを<嫌う>ということ』(角川書店)は、とても「痛い」本です。さまざまな「嫌い」「嫌われ」について綴られています。中島は、まさに上に書いたような家庭で育ち、生まれたときから東大にはいることを当然とされ、そして、母が憎む父を自分に投影して、自己嫌悪の塊となったと言います。自己嫌悪における自己愛は、自然にはぐくまれる自己愛ではなく、なんとか「自分を守るための愛」ですから、傷つくのが異常に怖い。誰からも傷つけられたくない。そのためにはどうしたらよいか。ひきこもるか、もう一つのパターンは「あらかじめすべての他人を嫌っておく」のだそうです。

どこか、陽輪学園の生徒たちにだぶるものを感じます。

家族は彼を「あなたの幸せな未来」という名の鎖で縛りつけるだけの人々。クラスメートも全員敵。蹴落として勝つしかない。蹴落として蹴落として、すべての人間を蹴落として、死ぬまで蹴落として生きていくことが「決まっている」吉田の人生。彼にとって、未来とはなんだったのでしょう。未来は見えません。未来なんてどこにもありません。あるのは、「今」だけです。
わかっていたのです。すでにわかっていたのです。でも、それを認めることはできませんでした。

「たった一年」が、秀雄にも、みどりにも、生徒たちにも「長い長い一年」になりました。それは時間が長いのではなく、こめる気持ちの大きさ、濃さが感じさせる長さです。そして、短さです。切ないほどの短さです。第十話、たった一回で描ききってしまう、短さです。

全員A判定の結果を教壇で発表する寸前の秀雄。ひとつ間違えば思わせぶりな間になるところを、クサナギツヨシはきちんと「感無量」の間で見せてくれました。生徒たちの歓喜、躍動。その中で、ひとりひとりの名前を呼ぶ秀雄の声、それは今までに見せたことのない、大きな、いや、ただ音量が大きいのではなく「ひとりひとりに届くように」叫ぶ声でした。ひっそりと喜ぶ吉田の姿が印象的でした。

ただがむしゃらに「確定した(された)未来」に向かうしかない、と思いこんでいた過去を振り返り、確実に変わってきた吉田の背中を、栞が押しました。

「確定した未来」なんてどこにもない。スケジュール帳に「来週の水曜日粗大ゴミ」と書くけれど、そのとき自分が生きている保証なんてどこにもない。突然戦争が起きるかもしれない。隕石が振ってくるかもしれない。「来週の水曜日」がどこから来るかと言えば、未来からです。でも、未来はないのだから、確定していません。「来週の水曜日」になって、粗大ゴミを出して初めて、このスケジュールは確定するのです。そして、それは過去になります。過去はどこに行ったのか。どこにもありません。「昨日の水曜日に粗大ゴミを出した」という記憶や記録は残りますが「昨日の水曜日」を探してもどこにもありません。

あるのは常に、「今」だけなのです。

なのに「来週の水曜日粗大ゴミ」と書ける幸せ。……幸せなのでしょうか。幸せなのだ、と、今は思っておきます。

吉田も含め、クラス全員が「確定した未来」なんかないことを知り、でも「目指す未来」を自分で想定して、それに向かって頑張る、苦しみではなく楽しさを知り、心と心が共鳴することの喜びを、おそらく、生まれて初めて知って、湧き出る力。それが、猛勉強と合唱の両立を成り立たせたのではないでしょうか。

教頭に連れられて体育館にやってきた田岡の母。クラスメートと一体になって、息子が中村先生に向ける親愛と信頼の瞳、輝く笑顔、心の底からわき出る声。彼女もおそらく、初めて見たのでしょう。いや、幼い頃、まだ教育も何も考えずにただひたすらかわいかった息子の笑顔を思い出したかもしれません。

教頭の、田岡の母への言葉に涙し、戻り際、すれ違いに駆け上がってゆく吉田を見送り、小さく頷く教頭に涙し、おずおずと入ってゆく吉田に、笑顔で向かえるクラスメートたちに、涙しました。

『野ばら』は、ずっとユニゾンでした。もちろん、きちんとユニゾンができるようになってからパートごとの合唱にはいるのは当然ですが、中村先生はもしかしたら、吉田が来るまでユニゾンで続けていたのかしら、などと考えてしまいました。

そう。秀雄少年が、ユニゾンの『この道』に「吸い込まれた」ように。

以前も書きましたが、母音を長く伸ばす声が、人の心を癒し、和ませる効果について『語り・豊穣の世界へ』(片岡輝・櫻井美紀著/明文社)からも見つけました。この本も、買ったのはずいぶん前。『モリー先生の最終講義』と同時でした。いつか読もうと思って、そのままにしていました(笑)。

子どもを寝かしつける子守歌、「かーごめかーごめ」などの遊び歌、「たーけーしーくん、あーそーびーまーしょー」などのかけ声、「いーしやーきいもー」などの売り声……。懐かしく心に残る幼い日の思い出の言葉には、歌は当然の事ながら、かけ声でも音程があり、テンポはゆったりしており、母音を長く伸ばしている、と。言われてみれば、思い出す声、歌、顔が、たくさんありました。カンノくんはどうしているかな。ミホちゃんはどうしているかな。

『この道』はもちろん、『野ばら』もあえてウェルナー版を使っているのは、長母音の癒し効果を伝えるためかもしれない、たぶんそうだろう、と勝手に解釈しております。スポーツでもゲームでもなく、歌。しかも、聞くだけで心を癒し、さらに、大勢で歌えばもっともっと和ませてくれる、長母音を活かし、もちろん、美しい日本語の、歌。

合唱コンクール、予選の舞台。

初めてわたしたち視聴者は、ユニゾンではなく、パートにわかれた合唱を聴きました。美しい合唱でした。予選を通過するほどレベルの高い合唱でした。かつて、病院の窓の下で歌ってくれた頃と、比べものにならないほど、技術が上がっていたでしょう。でも、歌にこめる心は、ヘタでもうまくても、同じだったでしょう。そこに至るまで、季節が流れてゆきました。秀雄に残された時間はどんどん短くなってゆきました。途中、焦ってしまう秀雄を、みどりが優しくたしなめたこともありました。

予選結果の封筒を巡る、「どっちなの?」「見えないんですけど」職員室の小さなもみあいを斜め上から見せてくれたアングルが愛おしく、そして、予選通過を知った生徒たちの歓喜。

予想外の誕生祝。

「ありがとうございます。僕は今日で、29歳になったんですね。……29歳です」

29歳です。

もしかしたら、迎えることがなかったかもしれない、29歳の誕生日。心から祝ってくれる生徒たち。そしてみどり。自分に言い聞かせるように、絞り出した「29歳です」。

涙をこらえてクラッカーをならすみどり。生徒たちの拍手、その音を引き継いで星空を仰ぐ露天風呂の新婚旅行。

季節を越えて走り抜けてきたふたりの、心からホッとする一夜。温泉で思わず笑い出したり、星空を眺めたり、幸せな気持ちで床につき、深夜、目覚めた秀雄。

みどりの寝顔をそっと見つめて、ほほえむ秀雄。
その、秀雄の「息」の音を、このシーンでは、はっきりと拾っています。生きている、間違いなく生きている、秀雄の呼吸の音を。

みどりの父は心配していました。二人の愛が深まるほど、残された娘はつらくなるのではないか、と。金田医師は答えました。「僕の知る限り、愛情が深いほど、そして楽しい時間を過ごした人ほど、残されたあと、再び楽しい人生を送っていらっしゃいますよ」。

何とも言えない秋本理事長の顔。秋本夫婦も、そうだったのでしょう。あんなに健やかな娘が育ったのですから。

そして……。

愛情が深いほど、楽しい時間を過ごしているほど、愛する人や、愛する環境との別れがつらい。これから自分の生徒たちがどんな風に育っていくのか、残るみどりの行く末は本当に幸せになのか、母はどうやって生きていくのか、それを知ることができないのがつらい。小さな目で見た範囲だけでなく、無意識のうちに「世界」すべてとの別れが、それがどう変わるか見られなくなることが、つらい。悲しい。死にたくない。子どものように泣きじゃくる秀雄を、みどりがやさしく抱きしめました。

でも、唯一無二の愛もなく、生徒にも慕われず、同僚からもバカにされ、何も足跡を残さずにこの世と別れていく悲しみと、どちらがつらいでしょうか。

楽しい時間を過ごして、足跡をたくさん残して、泣いて泣いて、いくら泣いても足りないほど泣いて、その時、世界で一番愛する人が抱きしめてくれる。

杉田めぐみの、死が怖くないのか、という問いに答えた「はい、怖くありません」も、「死にたくないよう」も、どちらも本当の言葉ですよね。

何度でも泣きたい、何度でも気力はわいてくる。それを交互に繰り返しながら「確定した死」に近づいてゆく秀雄。

理事長の顔色を見ないで秀雄とみどりの提案を受け入れ、田岡の母に堂々と渡り合った教頭。
新婚家庭にやってきた先生たちとの楽しい時間。
職員室の、合唱コンクール結果通知を巡る、コミカルなやりとり。
模試の結果がどうであっても、みんなが頑張った事実は残る、と、職員室の誰もが認めてくれたこと。

秀雄の足跡は、確実に増えてきました。種が、蒔かれました。

たった一話で「28年より長い1年」の大部分を生きた、その変遷を、たった一話の中で、脚本の橋部敦子、演出の佐藤祐市はじめスタッフ、そして、出演者たちは、きちんと伝えてくれました。全体を引っ張るクサナギツヨシにとって、かなり難しい回だったのではないかと想像します。いや、全部難しいでしょうが(笑)。たった一話で「28年より長い1年」の大部分を生きた、脚本の中の中村秀雄にしっかりと寄り添い、目で読んで受け取り、声に出して身体に入れて、もう一度声に出して「秀雄の言葉」を「クサナギツヨシの耳」で聴いてやり、さらに身体に取り込んで、それを何度も何度も繰り返して、少しでも「秀雄の気持ち」を分かってやろうとつとめ、そして、それを表現していました。完璧ではないでしょうが、素晴らしい仕事を見せてくれました。

もう一話、最終話の感想を書き終わったら、『僕の生きる道』におけるクサナギツヨシの総論を書きたいと、書きたいと、書きたいです。書きます。




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