『僕の生きる道』第七話

〜「偽菩薩から種を蒔く人へ」〜

湯山きょう子

 前回の話ですが、赤坂栞は、父の会社が危ないから大学に行けないかもしれない。けれど、何不自由なく育ち、生きているみどり先生と自分を引き比べて「不公平だ」という。上か下か。自分より、上か、下か。それしか考えていない。
 
 いつも一番の吉田は、順位が下がったことでひどく動揺している。上か下か。勝つか負けるか。

 久保先生は、秀雄にみどり先生をとられた腹いせに「中村先生、内心俺のこと笑ってる」なんて言ってしまう。上か下か。
 
 教頭先生は勤務評定の付け方に苦悩しています。上か下か。
 
 しかしこれは、陽輪学園に限ったことではありません。
 
 中村先生でなくとも、いつか読もうと買ったままの本が、誰にもあると思います。わたしの本棚にも何冊かありました。そこに、こんな文章がでてきます。
 
「我々の文化全体が、人生のあらゆる側面で競争心を助長することによって、我々を愚弄しています。誰かが競争に勝てば、誰かが負けます。そこで敗者は自分自身を批判し、上手にやらなかった、勝たなかった、ナンバー・ワンにならなかったからといって、自嘲します。(中略)我々は、感情や肉体の状態に害を及ぼすような方法で、自分自身を評価することをやめるべきです。(中略)あなた自身に対してもっと親切に(後略)」

「人間に対して優しくするつもりなら、まず、自分に対して親切にするのは当たり前のことです」

モリス・シュワルツ著/松田銑訳
『モリー先生の最終講義〜死ぬこと・生きること』(飛鳥新社)

 ちょうど1年前、数冊同時に買ったうちの一冊です。今まで読みませんでした。このドラマが始まって、ようやく開きました。モリス・シュワルツというアメリカの社会心理学者が、不治の病に罹り、亡くなる直前に残した一冊です。口述部分もかなり含まれています。非常に具体的に、間近に死を迎える患者に向けて、その周囲の人々に向けて、そして、今、まったくの健康体であり、身近にも病人のいない人々にまで向けて、アドバイスを、メッセージをつづっています。宗教的な背景の違いから、よくわからない部分もありますが、わたしは、いま読んでよかった、と思いました。
 
 余命が少なくなった人に、自分自身を哀悼しなさい、と、モリー先生は言います。普通、哀悼は自分ではなく、自分の好きな他人に捧げられるものでしょう。しかし、モリー先生は、自分自身の運命を嘆き、悲しみ、絶望し、怒り、恐れ、早死にの悔しさに、残してゆく人や残した仕事への未練、いま生きている美しい世界全てとの別れを惜しみ、泣いて泣いて、涙が涸れるまで、声を上げて泣き終えたとき、「生きとし生けるものは、みな死ぬ」という事実を受け入れることができたのだそうです。

 自分の泣くところ、もだえ苦しむ様を見られると、自尊心が傷つく、と拒む人もいるでしょう。また、「それを見る愛する人がつらいだろう」と「見せたくない」と決断する人もいるでしょう。七話の秀雄は、まさにそうでした。

 しかし、モリー先生は、どんどん泣きなさい、嘆きなさい、しかも愛する人にその姿を見てもらいなさい、と言います。そして、
 
「もしわたしが『なんでわたしを? 神様はなんでこんな目にお合わせになるんだろう?』と言うとしたら、それは自己憐憫です。ところが『これはわたしに降りかかった災難だ。まいったなあ』と言うとすれば、わたしは、自分の悲しみを承認しているのです」

 もちろん、泣いても泣いても、愛する人に抱かれて泣き尽くして、それで気が晴れても、あくまで一時的なものです。悲しみは、怒りは、何度でもやってきます。でも、嘆き悲しみ、そして現実を受け入れ、それでも再び、嘆き悲しむ。それが哀惜であり、人生の本質である、と。
 また、現実を受け入れる、ということは、神様が用意してくださる別の現実がきっとある、と考えるのではなく、常に、絶えず、現実を直視しようとすることだ、と。つまり「今」を。

「神様、お願いです、僕の運命を変えてくれませんか。……だめですか」

 六話の最後、心の中でつぶやいた秀雄は、ひとりで我慢するつもりでした。実際、日本では「我慢強い患者」が褒められるものです。でも、それでは、自己憐憫で終わってしまう。神様は不公平だ、と。

 なぜ、自己憐憫を、切り離さなければならないのか。モリー先生の答えは「悲喜こもごもの日常生活と縁が切れないようにするため、災難を怨む境地を乗越えなければならないから」。
 
 まだ自己憐憫の段階にある秀雄が「自分の運命を受け入れたんです」と言っても、それは辛い。秀雄にも辛い、聞かされるみどりはもっと辛い。受け入れた、その中に、自分はいないのですから。

 第七話では「〜なら」という言葉がたくさん出てきました。
 麗子先生なら、久保先生なら、どうしますか。
 秀雄も聞きました。みどり先生も聞きました。

 答えは最初にでていました。金田医師の言葉。
 
「中村さんの気持ちは中村さんにしかわかりませんから、理解しようとしても無理なんです。話し相手になってあげてください。辛いとき、辛いって言える相手になってあげて」

 懸命に、他人の意見を聞くのは当然です。でも、最後は自分の気持ちを信じるしかない。みどり先生は強い。温室育ちだけど、温室で世界一の“特選素材”が育つことだってある。
 
 けれど、七話の秀雄は、菩薩になりたがっていました。常に菩薩の笑顔でいたいと、みんなにそう接したいと、願っていました。淡々と、悟りきった、運命を受け入れた顔で。

「俺なら別れる。それが彼女のためだと思うから」
「久保先生と同じです。実際、もう別れましたから」

それなのに。
 
 週末、覚悟を決めて帰ったふるさとの教会には、みどり先生。
 
「僕の気持ちを揺さぶるようなことをするのはやめてください。できるだけ、心穏やかに過ごしたいんです」

 運命、受け入れてないじゃん(笑)。

 もうその後の“母もの”展開は、降参です! 許して! ごめんなさい! 泣かずにいられません! わかっているのに、泣かずにいられません! スムースに受け入れられるのですから! お約束なのにっ!
 
 間違えられた婚約者、夜中の肩もみ、死んだおとうさんの話。
 秀雄は、お父さんを嫌いではなかったでしょうが、お母さんに苦労をかけるわがままな人、あんな人にはなりたくない、と思って育ったようですね。実際は、あー、別れてよかったね、って「お父さん」も世の中にはいっぱいいるんですが……それはさておき、ドラマはドラマ。
 みどりへのネックレス。
 秀雄への、一筆。

 そして、みどり先生へのプロポーズ。
 そして、母への電話……。

「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、わたしは今日、林檎の木を植える」

「たとえ明日世界が滅亡しようとも、わたしは今日、家を建てる」
「たとえ明日世界が滅亡しようとも、わたしは今日、温泉を掘る」

 ではダメなのです。林檎の木でなければ。種子を持つ、植物でなければ。
 文字通り、子供を残すという意味でもかまいませんが、わたしは、秀雄とみどりが、種を蒔く人になる、という意味に取りたいのです。
 
 かつて『TEAM』本編ではまりにはまり、公式掲示板に毎週書き込みをしていました。その時も書きました。風見くんは種を蒔く人になってほしい、なればいいんだ、と。
 
 その人は種を蒔いただけでも、そこから生えた木がまた種を落とし、そこからまた芽が出て……。
 秀雄とみどりなら、そんなふたりになれる。ふたりも幸せを求め、そして、周りの人たちにも知らぬうちに何かを残してゆく、そんなふたりになれる。
 
 プロポーズを受けて、歩み寄ったみどり先生が、自分より背の高い中村先生の肩の「上から」抱きついた。はい、そばにいます。わたしはあなたを、受けとめます。時には甘えさせてあげます。
 
 今回、ちょっと不満がありました。
 教会が、美しくない。
 えー、教会だけじゃないんですが……。
 あと、ドタバタのさじ加減が少々……。
 このあたりは好みですかね。
 
 今回はそれでよかったのかなあ、と思いつつ、ああ、やはりそろそろ、頼むから星演出で見せてほしい。美しい光と陰を、画像的にも、心情的にも見せてほしい、と。
 
 だからちょっとだけ不満だけど、第七話のクサナギツヨシは、第七話の中村秀雄でした。




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